「朝起きて、ご飯食べて、仕事して、お風呂に入って、寝る。」
「毎日この繰り返し。。なんだか虚しい。。」
そんなふうに、とつぜん虚しくなるときはありませんでしょうか。
不安だけど、誰にも言えない。そんな寂しさを抱えてはいないでしょうか。
実は、この虚しさは人間の本質であり、あなただけではありません。
仏教では、この虚しい苦しみを「流転輪廻」という言葉で教えられています。
流転輪廻の仏語について、解説いたします。
仏教が教える、「流転輪廻」とは
「流転輪廻」という言葉を、断片的にでも聞いたことはあるでしょうか。
「万物は流転する」というヘラクレイトスというギリシャ哲学者の言葉は有名ですね。また「輪廻」もよくマンガやアニメなどで出てきますので、言葉を断片的に知っている人はあるかもしれません。
しかし、具体的に何を表しているかを、正しく知っている人はあまりいません。
輪廻のイメージから、死んで違うものに転生することを想像する人も多いと思います。
もちろんそれも輪廻なのですが、死ぬ前の今も流転輪廻をしているのだと、仏教では教えられています。
「流転」というのは、流れて転がると書いて、移り変わっていくことです。
「輪廻」は輪が回る(廻る)ということで、たえず変わっていくことをいいます。
しかし変わるといっても、大きな特徴があります。
それは「輪」であり「円」の形をしているということです。
流転の「転」は転がる。そして「輪廻」は輪が回るとあります。
線ではないのが大きな特徴です。
線を書くと、必ず始まりがあり、そして終わりがあります。
(画・シスターケロンパ)
しかし円は、始めから終わりに向かうと、また始まりに戻り、ぐるぐると続いていきます。始まりもなければ終わりもないのです。
動いていても、一周ぐるっと回ると同じ風景で、止まっていたのと同じように感じます。
たとえどんなに動いたとしても、本質的には何も変わっていません。
仏教では、「流転輪廻」は苦しみをあらわす言葉であり、迷いなのです。
そして、私たちはもれなくすべての人が、この迷いの中にあります。
「毎日が同じことの繰り返し…」虚しくなる理由
起きて、食べて、トイレに言って、寝て、私たちの日々は進んでいきます。
仕事でトラブルがあたり、旅行をして楽しく過ごすと、毎日違うように思えます。
が、俯瞰して見てみると、このサイクル自体は、なにも変わりはありません。
そして、あっという間に1週間、1ヶ月、1年と過ぎ行きます。
そして貧乏でもお金持ちでもこの様相は変わりありません。ちょっといい食べ物やいい場所になるくらいでしょう。それで流転輪廻が変わるわけではないのです。
毎日が同じことの繰り返しの流転輪廻です。
ときおり大きなイベントはあっても、一時的です。流転輪廻から抜け出すことではありません。すぐに繰り返しに戻ってしまいます。
いうなれば、マラソンを走っている途中の、給水所といえます。給水所自体で、ひととき癒やされることはあっても、ずっととどまることはできません。
給水所は、本当のゴールではないからです。
そしてそのあとのマラソンにゴールがないとしたらどうでしょうか。
この終わりがないというのが、大変な苦しみなのです。
賽の河原の石積みという、終わりがない苦しみ
「賽の河原の石積み」という言葉があるのはご存知でしょうか。
親不孝の罪で苦しみの世界に堕ちた子どもが、鬼に苦役を強いられます。
苦役とは、河原の石を自分の身長よりも高く積むことです。
トランプタワーですら難しいですから、ましてや歪な石を重ねていくことの難しさは計り知れません。
投げ出したい気持ちいっぱいですが、高く積むことができれば、苦役から開放され、親のもとに帰れると鬼は言います。
家に帰りたい一心で、子どもたちは石を積み上げます。
しかし高く積み上げ、もうまもなくというところで、鬼がやってきて、積み上げた石を金棒で崩すのです。
そしてまた泣く泣く石を積み上げます。そして、また鬼に崩される。
これを終わりなく延々と繰り返す苦しみです。
そこから意味のない苦労を表す言葉になりました。
これこそ、まさに流転輪廻でしょう。
私たちはゴールがあるから頑張れます。
しかし、本当のゴールがない円の中をぐるぐる走っているとしたら、私たちがふと持つ虚しさも、うなずけるのはないでしょうか。
流転輪廻が抜け出すことがゴール
流転輪廻の輪の中にいるかぎり、一時の幸せにはなれても、本当の幸せにはなれません。
この流転輪廻の輪から抜け出すことが仏教の目的なのです。
これを「出離」と教えられています。輪から出て離れるということですね。
出離することで、迷いが晴れ、幸せの世界に入れるのだと言われています。
「そんなことあるのか、本当なのか」という気持ちでいっぱいですが、この越えた世界をあの「いろはうた」で教えられています。
また機会があれば解説いたします。