【2019/10/25投稿 ※2019/11/22更新・追記しています】
先月末、大千秋楽ライブビューイングが上映された「ミュージカル『刀剣乱舞』 ~葵咲本紀~」。
葵咲本紀と書いて「きしょうほんぎ」と読む本作は、「刀ミュ」シリーズで最多の公演数となる新作でした。
自他ともに認める「みほとせ(三百年の子守唄)の女」な筆者にとって、「みほとせ」と対になる「葵咲本紀」はどんな展開になるのか非常に楽しみな公演でした。
前回コラムでは9月18日に鑑賞させて頂いた後に、刀ミュ初登場の刀剣男士・御手杵と永見貞愛との出会いを中心に「葵咲本紀」の感想を書かせて頂きました。
今回は2つの作品の鍵となる歴史上の人物・徳川家康の生涯を切り口に「みほとせ」と「葵咲本紀」をつなぐ物吉貞宗のセリフをご紹介。
「みほとせ」と不可分な存在である副題「葵咲本紀」の意味を考察します。
※「葵咲本紀」はストーリー展開が大きな魅力の一つになっている作品です。未鑑賞の方は配信等でご覧になってから読んで頂くことをおすすめします。
【あらすじ】「葵咲本紀」の徳川家康は変わってしまった?「三百年の子守唄」の家康との違和感
【この後、大きなネタバレを含む内容になりますので、ご注意ください!】
※本コラムは「葵咲本紀」9月18日の兵庫公演、大千秋楽ライブビューイング&ディレイ配信を鑑賞させて頂いた筆者が記憶している内容をご紹介しています。あらすじ等が誤っている可能性もありますが、Blu-ray鑑賞後に修正を入れさせて頂く予定です。
「葵咲本紀」の序盤、「みほとせ」ファンである筆者は大きな違和感を覚えました。
それは徳川家康の変貌です。
「みほとせ」で時間遡行軍に殺された松平家の家臣に成り代わって刀剣男士たちが育てた徳川家康は、「葵咲本紀」では天下を目前とした時期の姿で登場します。
徳川四天王に成り代わった刀剣男士たちの無事を心から案じる、優しく明るい面が際立っていた「みほとせ」の家康とは打って変わり、「葵咲本紀」ではキービジュアルも策士らしい表情に。
折しも舞台は、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する直前。
「みほとせ」で物吉貞宗が成り代わっている名将・鳥居元忠が歴史上凄惨な最期を迎える伏見城の戦いが勃発した時でした。
徳川家康「忠勝!直政!伏見から知らせがあった。三成が挙兵したそうじゃ」
千子村正(井伊直弼)「伏見城は?鳥居元忠殿はご無事なのでしょうか!?」
家康「おそらく助かるまい」
村正「今すぐ援軍を!」
家康「無駄じゃ、間に合わん」
村正「ですが!」
家康「元忠も覚悟の上の事じゃ!…直政、早急に今後の策を立てよ!」
兄弟のように育った元忠の最期に動揺も見せない、「みほとせ」とは別人になったような冷たさが際立つ徳川家康。
役者さんは同じでも、ひょっとして「みほとせ」とは違う世界線の物語なのか?と思ったファンも多かったでしょう。
しかし千子村正・蜻蛉切のセリフから、「葵咲本紀」は「みほとせ」で描かれた松平信康の死後と徳川家康の臨終の間にあたる物語であることが分かります。
村正と蜻蛉切は「みほとせ」の後も、井伊直政と本多忠勝を演じ続けていましたが、特に村正は強く家康の変化を感じていました。
「蜻蛉切…ワタシはあの男が嫌いデス
ま、今に始まったことじゃありませんけどね
…信康さんの一件以来、ハッキリと…嫌いデス」
村正は信康の死後も天下統一を平然と進めていく家康に、強い嫌悪感を抱いていました。
また村正は、亡き信康に強い思い入れを持っていことも明らかに。
「鳥兜…ですよ」
それは「みほとせ」ファンなら誰もが見覚えのある、あの花。
「みほとせ」で服部半蔵を演じる石切丸と、8歳の信康が交わしていた他愛ない会話の場面で、信康が持っていたのが鳥兜でした。
この場面に村正は登場していないのですが、井伊直政を演じ始める前から村正は信康に思いを懸け、見守っていたのでしょう。
信康を死に追いやった家康は、村正の目にも「腹黒い策士」へと変貌しているように見えていたのかもしれません。
「うまく笑えておるかのう」という家康のセリフは「葵咲本紀」と「みほとせ」が繋がる瞬間
「葵咲本紀」では史実に伝わるように、家康が双子で生まれた永見貞愛を歴史から消し去り、同じく双子の結城秀康も冷遇していたことも明らかになります。
実の息子に冷たい態度を取る薄情な父親としかみえない家康は、もはや「みほとせ」とは別人に変わってしまったのでしょうか。
真実は、物語の終盤で明らかになります。
家康は長男・信康亡き後、双子の秀康・貞愛を後継者から外し、四男の徳川秀忠を徳川幕府2代目将軍候補とします。
秀康の方が後継者となる器量があると言って強く拒んでいた秀忠ですが、信康の力添えで家康と向き合うことを決心。
自身を後継者にする理由を問うた秀忠に家康は「夢」を明かし、これまでの行動の真意を明かします。
家康の夢は、戦の無い平和な世を作ること。
秀康は戦乱の世で活躍する才があり、秀忠は戦の無い世を治めることに向いていたため秀忠を後継者にしたというのです。
臆病な性格ゆえに跡目争いの元になる双子・貞愛を神主にして歴史から消したことも、実は家康は自身の性分だと恥じていたのでした。
「みほとせ」の最後で明らかになった家康の心と変わらず、天下を目前とした「葵咲本紀」の家康も、戦の無い平和な世を実現したいと切望していました。
そこへ、伏見城の戦いで徳川側が全滅、物吉貞宗が扮する鳥居元忠が死亡したという知らせが。
「すまんのう…元忠…」
抑えきれない涙を流しながら、家康は笑ってみせます。
泣きながら笑う家康の姿に秀忠が驚く中、家康の口から紡がれたのは衝撃の一言でした。
「元忠…わしは、うまく笑えておるかのう… のう…元忠…」
この言葉こそ「葵咲本紀」の家康が、「みほとせ」と同一人物であることを象徴するものでした。
時間遡行軍により抹殺された鳥居元忠に成り代わり、家康が竹千代君の頃から傍にいた物吉貞宗。
物吉貞宗は「みほとせ」で、10歳の竹千代にこんな言葉をかけています。
竹千代「…鳥でさえ親がおるというのに…どうして竹千代にはおらぬのであろう…。
…父上。」
にっかり青江「…竹千代様。」
竹千代「……わかっておる…殺されたのであったな」
にっかり青江「……はい。」
物吉貞宗「竹千代様!」
竹千代「…なんじゃ?元忠。」
物吉貞宗「こういうときこそ笑顔です!」
竹千代「…笑顔?」
物吉貞宗「はい!辛いことや悲しいことはたくさんあります!
でも、笑顔を失ってはだめです!
笑っている人のところに
幸運は舞い込んで来るんですよ!」
竹千代「…笑うと…幸運が舞い込んでくるのか?」
物吉貞宗「はい!ボクは竹千代様の笑顔が大好きです!」
(中略)
竹千代「不思議じゃ。本当に幸せな気分になってくる。」
物吉貞宗「はい!笑顔が一番です!」
竹千代「…そうじゃな。いかなる時も笑顔を心がけることにしよう。」
「みほとせ」では時間遡行軍により竹千代は親を殺され、孤独な幼少時代を過ごすことになりますが、史実として伝わる家康も幼い頃から苦難の連続でした。
家康は、数えて三歳のときその生母於大が、突如ふってわいた政治的事情のためにこの岡崎松平家を去らざるをえなくなり、母子生別した。
さらにかれ自身も六歳のとき、人質としてこの三河を離れ、他国に流寓した。
少年の運命としては、もっとも劇的である。
三河岡崎衆を結束させたのは、この少年の悲劇性であろう。
(司馬遼太郎『覇王の家(上)』新潮文庫(2002))
司馬遼太郎氏の名作にもあるように、政治に振り回され、自分の命も大人達の都合でいつ奪われるか分からない、不安な毎日を竹千代は送ります。
それは決して、幸せな幼少期とはいえないものでした。
経緯は違えど「みほとせ」でも孤独で辛い幼少期を送っていた竹千代は、ある時その苦しみを口にします。
そんな竹千代に、史実でも幼少期を共にした鳥居元忠に成り代わっていた物吉貞宗が贈ったのが、この言葉でした。
「辛いことや悲しいことはたくさんあります!
でも、笑顔を失ってはだめです!
笑っている人のところに
幸運は舞い込んで来るんですよ!」
その言葉は、苦しみに満ちた生涯を送った家康にとって、心の拠り所となるのです。
元忠の言葉は、ずっと家康の心に。苦しみの人生を送る家康に、物吉くんが送った言葉とは
家康を天下人にするため、不遇な人生をともに歩んできた鳥居元忠は史実上、伏見城の戦いで壮絶な死を遂げます。
元忠が流した血が染み込んだ「血染めの畳」を家康は元忠を悼み、讃えるため江戸城に設置。
元忠は三河武士の鑑として、今日に伝わっています。
「葵咲本紀」の冒頭、元忠を伏見城に送った家康は淡々とその決定を下し、まさに世間で持たれる「狸親父」な家康のイメージ通りでした。
しかし元忠が戦死したという報告が入って来たとき、家康は堪えきれない涙を流しながら
「元忠…わしは、うまく笑えておるかのう…」
と絞り出すように言います。
それはまさしく子供時代を共に過ごした元忠のあの言葉を、自身にずっと言い聞かせてきたからでしょう。
「人の一生は重き荷物を背負って坂道をのぼるようなものだ」
というおよそ英雄とか風雲児とかといったような概念とは逆のことばは、晩年の家康がいった言葉であると言い、また偽作でもあるというが、このことばほど家康の性格と処世のやりかたをよくあらわしたことばはない。
(司馬遼太郎『覇王の家(上)』新潮文庫(2002))
先程ご紹介した司馬遼太郎氏の「覇王の家」にもあるように、家康の生涯は重い荷物を背負って坂道をのぼるような苦難の連続だったことは間違いありません。
家康は戦場で掲げる馬印に「厭離穢土欣求浄土」という言葉を用いたことでも知られるように、実は仏教に深く帰依していたそうです。
仏教では人の一生を「一切皆苦」といい、人生は苦しみに満ちていると釈迦は2600年前に説かれていました。
家康ほどの苦労人でなくても、現代に生きる私たちも仕事上の悩みや将来への不安、人間関係の悩みなど、苦しみは日々尽きません。
家康だけでなく、すべての人は生まれてから死ぬまで、坂道をのぼるような苦しみの一生を送っているのです。
「不幸の塊」のような家康を支えたのは、物吉くんが教えた笑顔の大切さ
「…つまり…家康公は、幸運であると自分に言い聞かせていたわけデスね。
不幸の塊のような人生だったのに」
物吉くんが演じていた元忠が歴史から消えたあとも、家康の傍にあり続けた千子村正は「みほとせ」でこう言っています。
自分は幸運であると言い聞かせなければ進んでいけないほど、まさに「不幸の塊」が家康の一生でした。
しかし家康だけでなく、人生そのものが苦しみに満ちていると仏教では説かれ、その上で私たちが幸せになるためのヒントも教えられています。
幸せになりたければ善、つまり良いことをしなさいとお釈迦様は生涯説かれていきました。
「因果応報」という仏教由来の言葉もありますが、悪いことだけでなく良いことも自分のやったことは必ず自分に返ってくるからです。
私たちが実践しやすいよう、釈迦は善を「六波羅蜜(ろくはらみつ)」といって6つに分けて教えられ、その内の一つが「布施」です。
今日「推しにお布施する」というような言い方で使われることもありますが(笑)布施とは本来、仏教用語で現代語でいうと親切という意味になります。
困っている人を助けたり、ボランティア活動や義援金を出したりといった親切も勿論布施です。
しかし自分に経済的な余裕や時間的、精神的に余裕が無い時もあるでしょう。
中々親切ができないときでも、誰にもいつでもできる布施が「笑顔」です。
笑顔で人に接することを仏教では「和顔悦色施(わげんえっしょくせ)」といい、心がけ次第でいつでもできる布施として勧められています。
家康の生涯を一度傍で見てきた上で刀剣男士として人の身を得て、再び家康とともに生きることになった物吉貞宗。
物吉くんは、家康に辛く苦しい一生が待っていることを最初から知っていました。
その上で「笑っている人のところに幸運は舞い込んで来る」と幼い家康に教えたのではないでしょうか。
六波羅蜜には6つの善が教えられていますが、6つの中の一つでも実践すれば全て実践したのと同じことになります。
辛くて苦しい毎日でも、心がけ次第でできる善が「笑顔」といえるでしょう。
愛する息子を失い、兄弟のように育ってきた元忠を死地に送ることになる時期の家康が「葵咲本紀」の冒頭には登場します。
戦乱の世で次から次へと襲い来る様々な苦難を経て、家康は何を考えているか図り難い、冷たくて気難しい表情をすることが増えていきました。
そんなとき、物吉くんが扮する元忠の訃報が入ります。
家康はこの時、物吉くんの「笑顔を失ってはだめです」という言葉が脳裏によぎったのでしょう。
涙を流しながらも必死に笑い「わしは、うまく笑えておるかのう…」ともうこの時代にいない「元忠」に問いかけます。
その家康を後ろで見守っていたのが、千子村正でした。
「葵咲本紀」のエピローグに登場した村正は、「みほとせ」と今作で描かれた家康の記録に題名を付けています。
「『咲』という字には、もう一つの意味があるのデスよ」
この場面で村正は「huhuhuhu」というお馴染みの笑い方でずっと笑っていましたが、それが答えなのかもしれません。
実は「咲」には笑顔という意味があります。
「葵」は徳川家の家紋、そして「本紀(ほんぎ)」とは、帝王の事跡を書いたものという意味です。
どんなに苦しい人生でも笑顔を忘れない。
そう心がけた末に覇王となった家康の記録が、「葵咲本紀」なのではないでしょうか。
無邪気に笑っていられた子供の頃と違い、年を取れば取るほど苦しいことは多くなり、私たち大人はついムスッとした表情になりがちです。
しかし苦しいときほど、布施の一つである笑顔を心がけるのは、幸せの第一歩。
物吉くんが家康に送った言葉は、現代人の人生にも通ずる大切な心がけです。
※コラム中の「三百年の子守唄」紹介部分はこちらの戯曲本から引用させて頂きました!より深く「みほとせ」を味わえるので是非読んで頂きたいです。
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