何か良くないこと・トラブルが起こったとき、皆さんはそのトラブルに対し、どんな見方をされているでしょうか。
自分に対しても周りに対しても悲観的な見方をしてしまう人が多いと思います。私も油断するとついついネガティブな見方をしてしまいます。
それでものごとが良い方向に進めば問題ないのですが、悪循環にはまり抜け出せなくなってしまうことが多いです。
そんな悪循環に陥ってしまうものごとの見方をアドラー心理学と仏教の観点からお話します。
周囲との関係を悪くする-認知のゆがみ「ベイシック・ミステイクス」
アドラー心理学では人間はものごとを客観的に把握することは不可能で、必ず主観的に見てしまう。つまり、その人なりの色眼鏡を必ずかけている、としています。
そのなかで、陥ってしまいがちな歪んだ認知方法が5つあり、それをベイシック・ミステイクス(基本的な誤り)と言われます。
以下が、5種類のベイシック・ミステイクスです。
<決めつけ>―可能性にしか過ぎないものをレッテルを貼って断定してしまう。
例:自分は駄目な人間なんだ、あいつは使い物にならないやつだ<誇張>―5のものをまるで10のようにとらえてしまうこと
例:みんな、いつも、すべて、などの言葉を伴う<見落とし>―ある部分のみを見ることによって大事な側面を見ないこと
例:できていることが多いのにたまたまできなかったことだけに目をやる<過度の一般化>―ある部分だけが問題であるのに他も全部問題と捉えてしまうこと
例:会社のある部署のみが問題なのに会社全体が駄目だと思ってしまうこと<誤った価値観>―自滅的・破壊的な価値観で物事を捉えてしまうこと
例:ひと言注意されただけでやっぱり駄目だから会社を辞めようとまで考える
自分にとって悪いと思える結果、不幸と思える結果がやってきてしまったとき、私たちはベイシック・ミステイクスに陥りがちですが、これに陥ってしまうと周囲との関係に摩擦が生じ、どんどんその関係の中で生きづらくなってしまいます。
周囲との関係が悪くなっていると感じたら、まず自分が「ベイシック・ミステイクス」になっていないかに気付くことが大事なのですね。
煩悩の一種「悪見」
では、仏教で「ベイシック・ミステイクス」にあたる言葉はあるのでしょうか?
その言葉は(あくまで私の見解ですが)「悪見(あっけん)」です。
悪見とは煩悩の一種です。
煩悩については、わっつさんが詳しく解説されている記事があるので関心のある方は参照なさってください。
仏教で教えられる煩悩とはなにか:煩悩①(仏教用語解説シリーズ)
煩悩とは私たちを煩わせ悩ませるもので、全部で108あると教えられています。欲や怒り、うらみやねたみの心などが煩悩にあたります。
そんなたくさんある煩悩の中で、特に大きな煩悩を六大煩悩といい、その六大煩悩の一つが「悪見」なんですね。
「悪見」とは次のように説明されています。
悪見は、仏教が教える煩悩のひとつ。
別名を不正見、もしくは我見という。
ひが事を強く思い定め、誠の道理を知らざる心である。
何事も自分にとって悪いこと、マイナスな出来事として受け取ってしまうことですね。ネガティブ思考のことです。
会社の上司が部下を叱るのは、上司にとっては「もっと部下に成長してほしい」と思ってのことなのに、部下は「上司は自分のことが憎いから、こんなに怒るんだ」と受け止めるようなものです。ベイシック・ミステイクスでいうなら「自分は上司にとって憎い存在」という“誤った価値観”であり、「自分は常に憎らしく思われる存在」という“決めつけ”にあたるかもしれません。
いったんこういう見方をしてしまうと、それからは上司の一挙手一投足が気になり、それまでは気にしていなかった言動も「私のことがやっぱり憎らしいから、そんなことをしているんだ」という思いにつながっていき、悪循環から抜け出せなくなってしまうのですね。
すべての人がネガティブ思考であり続ける!?
悪見は煩悩の一種とお話しましたが、煩悩はすべての人が共通して持っている心で、減りもしなければ無くなりもしません。
ということは、すべての人に悪見があるので、実はみんなが例外なく根は「ネガティブ思考」ということなんですね。
しかも「ネガティブ思考」を断ち切ることはできず、油断するとその思考であり続けてしまいます。
どんなに自分にとって都合が悪い、不幸と思えるような出来事が起きたとしても、「これは私をより成長させてくれる出来事なんだ」と、善意に解釈する心がけが大事なのですね。
まとめ
アドラー心理学で教えられる「ベイシック・ミステイクス」も、仏教で説かれる「悪見」も、誤った認知ということであり、その見方をし続ければ、周囲との軋轢を生み、生きづらさに苦しむことになってしまいます。
悪循環に陥る前に誤った見方に気付き、ものごとを善意に解釈し、人間的な成長を目指していきたいですね。