遠い未来、僕らは「宝石」になったーーー。
人類が滅んだ後、ずっとずっと先の未来で、人間によく似た宝石たちが生きていました。
月からやって来る天敵・月人(つきじん)たちと宝石たちが戦う物語を描いたアクション・バトル・ファンタジーが『宝石の国』です。
市川春子先生の初連載作品で、講談社『月刊アフタヌーン』にて連載中。
「このマンガがすごい! 2014年」オトコ編第10位に入り、昨年10月からアニメ化されました。
秋アニメの中で特に高い評価を得た作品で、筆者もその評判を聞いて原作を読み始めたところ、フォスの愛らしさと金剛先生のイケメンさにすっかり骨抜きに(笑)
作者の市川春子先生は仏教校に在籍していたことがあるそうで、金剛先生や月人の容姿など、仏教色漂うキャラクターデザインが美しい世界観をさらに深みのあるものにしています。
美術面だけでなく、仏教に通じる部分もある深いストーリーが幅広い読者の心を掴んでいるようです。
今回は仏教好きの筆者が『宝石の国』から学べる仏教思想をお伝えします。
『宝石の国』あらすじ 人間がいなくなった世界で戦う28人の宝石たち
この星は六度流星が訪れ
六度欠けて
六個の月を産み 痩せ衰え
陸がひとつの浜辺しかなくなったとき
すべての生物は海へ逃げ
貧しい浜辺には不毛な環境に適した生物が現れた
月がまだひとつだった頃
繁栄した生物のうち 逃げ遅れ海に沈んだ者が
海底に棲まう微小な生物に食われ
無機物に生まれ変わり
長い時をかけ規則的に配列し結晶となり
再び浜辺に打ち上げられた
それが我々である
六度落ちた隕石により人類が滅亡した世界に、人のような姿をした「宝石」たちが生きていました。
宝石たちは体内にいるインクルージョンという微小生物により、壊れても再生可能な不死身の肉体を持っています。
しかし宝石たちを装飾品とするため、月から無数にやって来る狩人・月人により幾人もの仲間が攫われ、消えていました。
月人たちに攫われないよう、宝石たちは皆それぞれ得意な仕事を担い補い合い、刺客と日々戦っています。
主人公は宝石の中でも最年少(ですが300歳)のフォスフォフィライト。
フォスは体が弱く、月人好みの薄荷色のため戦闘に向かず、不器用故に戦闘以外の仕事もない状態。
しかし明るく前向きな性格で自由奔放に生き、周囲からトラブルメーカーとして扱われていました。
宝石たちを教育し束ねる人物・金剛先生は、フォスに合う仕事が無く考えあぐねていましたが、ある日博物誌の編纂を指示します。
地味な仕事に不平不満を言いまくるフォスは、始めて早々に行き詰まってしまい、仲間からシンシャに訊いてみてはどうかと助言されました。
「あのシンシャ……?」
フォスは、周囲から存在価値を認められない宝石・シンシャに興味を持つ
シンシャは宝石たちの中でかなり異質な存在でした。
体から毒液が出る体質で、他の宝石たちが毒に触れるとその部分の体は光が通らなくなり、削り捨てるしか治療方法がないのです。
毒液は自身でも制御できなくなることがあるため、歩く毒物も同然なシンシャは仲間から孤立し、一人だけ夜の見回りの仕事を担っていました。
宝石たちが壊れると治療してくれる医師・ルチルは、シンシャについてこう語ります。
「シンシャだけは 彼から無尽蔵に出る銀色の毒液で
夜のかすかな光を集め一晩中歩き警戒ができます
でも夜に月人が訪れたことは一度もありません」
仲間と仕事をできないシンシャは、空しい仕事にたった一人従事していました。
フォスは隣の部屋で暮らすベニトに居場所を聞きますが、シンシャはしばらく部屋に帰っておらず、シンシャの部屋には床や壁に毒液がへばりついていました。
ベニト「あいつの毒は呼吸と同じだし、あいつが迷惑かけないようにしてるのもわかってる
でも正直に言うと、傍にいるだけで落ち着かないよ」
フォス「いるだけで迷惑
生まれてから役立たずの僕の上をいくとは
やるじゃない……!
期待も心配もされず褒められもしない
仕事なんて
いみわかんない」
シンシャを探しているうちに、虚の岬という月人に最も襲われやすい危険地帯に踏み入っていたフォス。
突如現れた月人に、フォスは攫われそうになります。
そこへ現れたのは探していたシンシャ。
自身から吹き出す毒液で月人と戦うシンシャは、時折制御できない毒液を口から吐きながら苦しそうに戦い、毒液が飛び散った草原は一瞬で枯れていきました。
「俺が息をするだけで土も草も死んでいくのに
これ以上
汚したくない
見られたくない
こんな恥ずかしい
戦いたくない」
月人を倒したあと、崖から落ちたシンシャを助けようとしたフォスにシンシャはこう語ります。
「俺は二十八人の中で最低の 硬度二だ」
硬度もフォスより低いシンシャは、おぞましい毒液を吹き出して戦うしかありませんでした。
その後フォスは、ルチルの治療を受けながらシンシャが夜の見回りをする本当の理由を聞かされます。
ルチル「非常な才能と戦闘力を持ちながら何もかもダメにしてしまう彼を
私たちは持て余し夜に閉じ込めているのです」
フォス「……それしかないの?」
ルチル「過酷で役立つ仕事は
自分の存在に疑問を抱かないためのよく効く麻酔です
解決を先延ばしにしている間に死ぬこともできない私たちは
代案が見つかるまで耐えるしかありません」
正反対の性格のフォスとシンシャは「存在価値」を探したいという思いで惹かれ合っていく
その後、また虚の岬に足を踏み入れたフォスは突然現れたシンシャに忠告されます。
シンシャ「おい 懲りてないのか」
フォス「し、仕事!仕方ないだろ!
そっちこそなんでまたここにいんだよ!ヘリオも攫われた危険な場所なんだろ!」
シンシャ「そうだ、俺はここで攫われるのを待っている」
シンシャが岬にいた理由は、衝撃的なものでした。
「月でなら俺に価値を付けてくれるかもしれない
ずっと待っているがこない
だが昨日おまえが現れた途端
ああだ
おまえはいいな
敵にすら愛されて」
仲間に疎まれているシンシャは、月人が自分の価値を見出してくれるかもしれないと思い、わざと危険な場所にいたのです。
この星で誰にも存在価値を認めてもらえないのなら、天敵のいる月に消えたい。
誰にも言わなかったその苦しみを聞いたフォスは、去りゆくシンシャの背中に向かって叫びます。
「夜の見回りよりずっと楽しくて
君にしかできない仕事を
僕が 必ず 見つけてみせるから!
月に行くなんて言うなよ! なあ!」
「にんげん」である私たちも、シンシャと同じ苦しみを抱いて生きている
フォスたちが生きるのは「にんげん」が滅んだはるか未来の世界。
砕けても元に戻る宝石たちは、私たちと全く違う生きものに見えますが、その苦しみは現代に生きる「にんげん」にも共通するところがあります。
私たち人間も、自分の価値を認めてくれる人や居場所を求めて生きています。
フォスとシンシャが適職を見いだせず苦しんでいるように、私たちにとっても仕事は生きるための手段であると同時に、自分の存在価値を感じられる一つの手段でしょう。
仕事だけではありません。
人間関係に悩みながらも社会に帰属したり、友人関係を築いたり、恋人を求めたり、家庭を持ったり…
私たちが日々求める「絆」や「安心」は、自分の存在価値を感じるための手段であるともいえます。
不死の肉体を持つシンシャにとって、自分は何のために生きるのかという存在価値を見つけられないことは、永遠の地獄も同じ。
存在価値を感じられないシンシャを何とか地上につなぎとめたいフォスは、ある時金剛先生に尋ねます。
フォス「先生 シンシャのことですが
彼はどうしてもあの空しい仕事でなくてはいけませんか」
シンシャ「許せ 私は未だ解決を持っていない
そして夜の見回りはあの子が自分で考えたものだ
生きているだけで良いと何度も諭したが
ただ息をしてやり過ごすには
あの子は優しく聡明すぎる」
本当は、生きているだけで素晴らしい存在が私たちであるはず。
しかし現実には人間である私たちも、シンシャも、ただ生きているだけで素晴らしいとは中々思えず、自分の存在価値を見つけられる手段を探して生きているのではないでしょうか。
医師・ルチルが言った
「過酷で役立つ仕事は自分の存在に疑問を抱かないためのよく効く麻酔」
という言葉は、シンシャだけでなく、寿命のある私たちにもいえることでしょう。
受験戦争、就活、仕事、婚活…
毎日あくせくと何かに打ち込んでいる私たちもまた、自分の存在に疑問を抱かないためのよく効く麻酔を打ち続けているのかもしれません。
私たちはシンシャたちと違い、寿命があり、タイムリミットがあります。
ルチルが言うように「解決を先延ばしにしている間に死」が訪れますが、先延ばしにしている間に人生が終わるなら答えが見つからなくてもいいのでしょうか。
自分に存在価値がないのではという不安は、シンシャが月の世界へ逃げたいと思うように、自殺という形で多くの「にんげん」を殺しています。
そして金剛先生が
「生きているだけで良いと何度も諭したが
ただ息をしてやり過ごすには
あの子は優しく聡明すぎる」
と言ったように、人生に真摯に向き合い、真面目に生きている人ほど、シンシャのように自分の存在価値に疑問を持つのではないでしょうか。
金剛先生がシンシャに諭していたように「生きているだけで良い」存在なのは頭では分かっていても、心からそうは思えない。
順境のときは気にならなくても、人生の壁にぶち当たったとき私たちは、人間として生まれた存在価値はあるのか、ないのか、問わずにおれなくなります。
何か手段がなければ、自分は生きているだけで価値があるとは中々思えない私たち。
しかし『宝石の国』の世界観にも表現されている仏教思想では、人間にしかない大事な存在価値があると教えられ、経典には
人身受け難し、今すでに受く
という一節があります。
生まれがたい人間に生まれ、人間に生まれなければ果たせなかった目的を果たすことができたお釈迦様の喜びが表現されている一文です。
シンシャのように仲間に疎まれても、フォスのように体が弱くて活躍できなくても、私たちには存在価値がある。
そう教えられた仏教哲学の答えを、引き続きお伝えできたらと思います。
どうすればシンシャが存在価値を見いだせるのか分からないフォスは、途方に暮れながら、一つだけ確かな思いを口にします。
「でも絶対 あいつがいなくなるのはやだ」
仕事や才能に左右されない存在価値を、フォスが見つけることはできるのか。
物語の展開を楽しみにしながら、今回はここまでにしたいと思います。