ギルガメッシュの名言から読み解く「他人の不幸は蜜の味」な私たち人間の本性【中編】※ネタバレ注意(愉悦部考察④)

来月はファン待望の映画版『Fate/stay night [Heaven’s Feel]』が上映スタート。

アプリゲーム『Fate/Grand Order』もイベントのたびにTwitterやPixivが大盛り上がりで、売上ランキングでもトップクラスの人気を維持しています。

『Fate/Grand Order』にも登場する人気キャラクター・ギルガメッシュ

俺様ならぬ「我(オレ)様」キャラで、自己中心主義の極み。傍若無人で自称「唯一無二の王」という、どう見ても悪役キャラなのですが、異常に人気があり、「Fate裏の『顔』」とも言われてきました。

来月上映する『Fate/stay night [Heaven’s Feel]』でもおそらく登場すると思われます。

どこが良いの?と思っている方に是非知って頂きたいのが、ギルガメッシュがある意味最も活躍するスピンオフ作品『Fate/Zero』です。

※(参考)前回記事はこちら

愉悦部とは?悩める聖職者・綺礼にギルガメッシュが送った数々の名言をご紹介

『Fate/Zero』を語る上で外せないのはギルガメッシュと、悩める聖職者・言峰綺礼のコンビ「愉悦部」でしょう。

愉悦部とは (ユエツブとは) [単語記事] – ニコニコ大百科

「愉悦部」という愛称通り、『Fate/Zero』では悩める聖職者・言峰綺礼にギルガメッシュが「愉悦とは何か」という命題から人間の姿について綺礼に説いていく過程が描かれます。

自分の本当の姿が分からず苦しんでいた綺礼の心を巧みに暴いていく名言の数々は、まさに「英雄王のカウンセリング」。

前回に引き続き、綺礼が気付けなかった「愉悦」について、考察していきます。

綺礼が父親からの依頼で参加することになった「聖杯戦争」は、どんな願いも叶えるという「聖杯」を巡って魔術師たちが「サーヴァント」(英霊)を召喚して使役、命をかけて行われる決闘。

綺礼は魔術師ではなく、むしろ敵である教会の裏組織「代行者」として魔術師を討伐していたのですが、何故か「聖杯戦争」の参加者「マスター」として選ばれます。

息子を誇りに思っている父・璃正(りせい)からの指示により、綺礼は言峰家の古くからの盟友・遠坂家の当主・時臣をサポートするために聖杯戦争に参加することになったのでした。

その綺礼が裏で支援していた遠坂時臣(とおさか ときおみ)が呼び出したのがギルガメッシュ。

しかし時臣とギルガメッシュは全く反りが合わず、ギルガメッシュは街中を勝手に放浪し、ある夜、綺礼の部屋にまで現れます。

叶えたい願いや希望は無い、愉悦など罪深い堕落だという綺礼にギルガメッシュは興味を持ち、時臣と自分以外のマスターがどんな目的で聖杯戦争に参加しているか調べろと綺礼に言います。

綺礼はギルガメッシュのご機嫌を取れば、時臣に何かプラスになるかもしれないと思い指示に従いましたが、ギルガメッシュに調査の結果を報告したとき、綺礼は予想外なギルガメッシュの真意を聞かされます。

「ーーー自覚がなくとも、魂というものは本能的に愉悦を追い求める。

喩えば(たとえば)血の匂いを辿る獣のように、な。

そういう心の動きは、興味、関心として表に表れる。

故に、綺礼。お前が見聞きし、理解した事柄を、お前の口から語らせたことには、既に充分な意味があるのだ。

もっとも多くの言葉を尽くして語った部分が、つまりはお前の『興味』を惹きつけた出来事に他ならぬ。

とりわけ『愉悦』の源泉を辿るとなれば、ヒトについて語らせるのが一番だ。

人間という玩具(がんぐ)、人生という物語……これに勝る娯楽はないからな」

「愉悦」の正体とは、誰もが持つ人間の性(さが)

初めて言葉を交わした日、聖杯で叶えたい理想も願望もないなら「愉悦」を求めればいいと言ったギルガメッシュに、綺礼は求道者である自分にとって愉悦は罪深い堕落であり、そんな心は自分に無いと否定。するとギルガメッシュは…

愉悦というのはな、言うなれば魂の容(かたち)だ。

“有る”か“無い”かないかではなく、“識る”か“識れないか”を問うべきものだ。

綺礼、お前は未だ己の魂の在り方が見えていない。

愉悦を持ち合わせんなどと抜かすのは、要するにそういうことだ。

かつてこの世の全てを手に入れたという英雄王・ギルガメッシュの言葉は深く言い回しも難しいですが、意外にも仏教哲学の視点から解読すると非常に論理的に理解できます。

仏教では人間のことを「煩悩熾盛の衆生」と言われます。

「煩悩」は除夜の鐘を打つ回数としても知られているように、どんな人にも必ず108あります。

「熾盛」とは燃え盛っているという意味ですから、煩悩で燃え盛っているような存在が人間であるということ。

燃え盛っているものが炎から離れることはできませんから、煩悩から人間は離れることができません。

ギルガメッシュの言葉を借りるなら、煩悩はまさに「魂の容(かたち)」

愉悦も煩悩のひとつといえます。

私たち人間が煩悩を捨て去ることができないように、愉悦を持たない人間もまたありえない。

だから「己の魂の在り方が見えていない」つまり自分の心の本当の姿が分かっていないから愉悦など持たないというのだとギルガメッシュは指摘したのです。

さらにギルガメッシュが気まぐれに指示したように見えた「各マスターの聖杯探求の動機を調べる」という任務は、綺礼に「愉悦」を自覚させるためのトリガーでした。

綺礼が最も熱を籠めて語ったのは、バーサーカーのマスター・間桐雁夜

この男の生い立ちには、綺礼自身も気付かない愉悦が隠れているというのです。

綺礼の愉悦は「愚痴」。誰もが持つ心「愚痴」の本当の意味

「間桐雁夜の命運に、ヒトの『悦』たる要素など皆無だ。

彼は生き長らえる程に痛みと嘆きを積み重ねるしかない

いっそ早々に命を落としたほうがまだ救われる人物だ」

人妻への報われぬ恋情に溺れ、全てを捨てて聖杯戦争に臨んでいた雁夜は、その実態はたとえ聖杯戦争に勝ったとしても想い人と添い遂げることは敵わない、希望も未来もない絶望の人生。

そんな人間に興味を抱くことのどこが「愉悦」なのか分からない綺礼に、ギルガメッシュは決定的な一言を突きつけます。

痛みと嘆きを『悦』とすることに、何の矛盾があるというのだ?

愉悦の在り方に定型などない。それが解せぬから迷うのだ。お前は」

「それは許されることではない!」

怒声は何故か反射的なものだった。

「英雄王、貴様のようなヒトならざる魔性なら、他者の辛苦を密の味とするのも頷ける。

だが、それは罪人の魂だ。罰せられるべき悪徳だ。わけても、この言峰綺礼が生きる信仰の道に於いてはな!」

痛みと嘆きしかないその人生に綺礼が抱いた心は、ヒトなら誰もが持つ「痛みと嘆きによる愉悦」。

ここでいう「痛みと嘆き」とは「他人の」痛みと嘆きのことです。

先ほどご紹介した「煩悩」にもこの心は説かれており「愚痴」という心だと教えられています。

108ある煩悩の中には、代表的な「三大煩悩」といわれるものがあり

貪・瞋・痴(とん・じん・ち)

と言われます。

その中の一つ、「痴」が「愚痴」の心です。

「愚痴」とは現代日本でよく使われる「不平不満を吐く」という意味ではなく、自分より幸福な人を見たときに起こる「ねたみ」の心のことをいいます。

言い換えれば、痛みと嘆きで苦しむ人を見たとき、ニンマリしてしまう愉悦も「愚痴

「何の愉悦も持たない」と愉悦を否定していた綺礼には、実は底知れぬほど強い強い「愚痴」が溢れていたのでした。

その事実を言い当てられた綺礼は平常時の能面のような表情を一変させ、感情を露わにします。

英雄王、貴様のようなヒトならざる魔性なら、他者の辛苦を密の味とするのも頷ける。

だが、それは罪人の魂だ。罰せられるべき悪徳だ。

綺礼にとって他者の幸福を蜜の味とする「愚痴」はヒトならざる魔性や罪人の持つ心。

まっとうな人間にはないと断固否定します。

「貴様のようなヒトならざる魔性」と散々な言われ方をしたギルガメッシュですが、少しも不快感を抱くことなく笑って応えます。

「故に愉悦そのものを罪と断じてきたか。

フフ、よくぞここまで屈折できたな。

つくづく面白い男だよ。お前は」

「他人の不幸は蜜の味」恐ろしい「愚痴」の心からヒトは離れることができない

綺礼が言うように、「愚痴」の心は罪人の魂のような、おぞましいものです。

芸能人や漫画家など有名人には必ず「アンチ」という否定派がいて、ネット上で「愚痴」の心を書き散らす場所もありますが、ちらっと覗き見るだけでもイヤ~な気分になる言葉で溢れています。

実際人気シリーズである「Fate」シリーズもアンチがたくさんおり、筆者もたまたま喫茶店で隣になった女性二人が「Fate」の人気ぶりがいかに不快かを熱く語り合っていて、ゾゾッとしたことがあります…

(まさか隣に筋金入りのファンが座っているとは思わなかったのでしょう(笑))

人気者の失敗、炎上はまさに「蜜の味」です。

ゴシップ記事を書いた雑誌が飛ぶように売れるのも全ての人に「愚痴」の心があるからでしょう。

そして大事なことは、この心が無いヒトは一人もいないということ。

筆者も子どもの頃から「ないものねだり」な性格で人一倍「愚痴」が強いです…

自分にない才能に恵まれた友人を見るたび、「愚痴」の心が吹き上がり「なんて私は性格の悪い人間に生まれてしまったのだろう」と悩んだこともありました。

鎌倉時代に詠まれた仏教の和歌には

こころは蛇蠍の如くなり

という一節があります。

この「こころ」とは愚痴のこころのことで、「蛇」や「蠍」を見たときのようなゾ~ッとする心をヒトは誰もが持っていると仏教では説かれています。

そんな恐ろしい心が自分にあると言われ、とても認めることができなかった綺礼は「罪人の魂だ。罰せられるべき悪徳だ。」と言い、そんな心は自分の中に無いとはっきり否定します。

はたして、本当にそうなのでしょうか。

その後綺礼は折々にギルガメッシュの言葉が頭をよぎり、ますます苦悩を深めていきます。

信仰と修身に人生を捧げてきたカリスマ聖職者・言峰綺礼が直面した自身の「愉悦」。

私たちにも大なり小なり存在するその心の本質とは…

そして「愉悦部」誕生明らかになる綺礼の「魂の容(かたち)」とは…

次回に続きます。