4月から待望のアニメ化、そして8月から実写映画化が決定した『九龍ジェネリックロマンス』。
原作は『恋は雨上がりのように』でも有名な眉月じゅん先生の漫画作品で、累計発行部数は140万部超え。
英語、中国語、イタリア語、フランス語、韓国語等、世界各国でも翻訳され国内外問わず多くのファンがいる作品です。
原作の連載初期からのファンだった私にとっては待望のメディア化。
放映中のアニメ版は原作ファンから見ても完成度が高く、未視聴の方にはぜひ見ていただきたい!と思う作品です。
今回はストーリーが進めば進むほど惹き込まれる『九龍ジェネリックロマンス』の魅力とストーリーに隠された深い人生哲学についてお伝えしたいと思います。
【ネタバレ注意・あらすじ】九龍ジェネリックロマンスはどんな話?記憶喪失の主人公・鯨井令子と同じ顔をした故人・鯨井Bの謎
理想的なラヴロマンスを貴方にーーー
『九龍ジェネリックロマンス』単行本の背表紙に必ず書かれているこの言葉。
1巻を手にしたときはこの言葉を見たとき、正直私は
「美人な後輩がゴリゴリ系の主人公に恋をしてくれる、ご都合主義の理想的なオフィスラヴ・ロマンスかな…?」
と大きな勘違いをしていました。
そんな第一印象を持っている方には、騙されたと思って3巻(アニメなら2話)まではとりあえず見て欲しいです。
私、記憶がないんです。
写真を撮った日だけじゃなく、過去の自分を全く思い出せない。
今日までそのことに気づかなかった。考えもしなかった。
ただのオフィスラヴではない片鱗が最初に見えてくるのが、この令子のセリフです。
主人公の鯨井令子(くじらい れいこ)は、片思いしている先輩工藤発(くどう はじめ)の職場デスクに、自分と瓜二つの姿をした女性(以後『鯨井B』と表記)と片思い相手の工藤が婚約した日に撮影した写真を見つけます。
このとき、過去の記憶が無いまま自分が日々を送っていたことに令子は初めて気づくのです。
記憶喪失モノかな?と読者は思うのですが、実はそうではありません。
じゃあきっと、これはあなたじゃないんだよ。
過去がない人間なんて他にもいるよ。
例えば私とか。
ここから、ここまで。
全身整形してるんだ、私。
私は過去を捨てたの。全部。
もしも…もしも過去の私を持ち出す人がいたら、私は否定する。
『それは私じゃない』って。
どれが私で私じゃないかは私が決める。
令子は、ひょんなきっかけで出会った楊明(ようめい)という女性に悩みを打ち明けます。
楊明は令子に、自分が全身整形で過去を消し去ったことを打ち明け、二人は親友になっていきます。
そして令子はこの楊明の言葉がきっかけで、過去に何があったのか、本当の自分は何者なのか知ろうとしていきます。
自分のことも、鯨井Bのことも、工藤さんのことも、全部自分で知りたい!
楊明と二人で様々な調査をする中で、令子は鯨井Bは既に亡くなっていることを知ります。
記憶喪失ではなく鯨井Bと令子は別人だったのです。
ダイヤモンドを模造して作られたジルコニアのように、元になった人間と全く同じクローンではない、でも姿形は同じ別人、「ジルコニアン」が令子なのではないか。
そんな仮説が令子の中で出来上がってきます。
一方、物語の舞台である第二九龍という街を掌握する巨大企業『蛇沼グループ』の社長・蛇沼みゆきが、令子という存在に強い関心を持ち、繰り返し接触してきます。
そんな蛇沼みゆきに対し、令子は自身の正体を知っているのではないかと問い詰めます。
ジルコニアンって何ですか!?
私はジルコニアンなんですか!?
そして令子は“絶対の私”になると宣言するのですが、この言葉が物語の重要な鍵になっていきます。
記憶はきっと戻りません…
だって私は別の人間だから…
そもそも記憶自体が存在しないんだと思います。
納得いかないことも、疑問に感じることも沢山あります。
でも…“絶対の私”になるって決めたから。
みゆきはそんな令子の姿を見て、こう分析しました。
『あなたはジルコニアンか否か』
答えはノーです。
かと言って、クローンでもなく、我々も何と表現したらいいか解らないのですが……ああ、そうだな、ふふ、これがいい。
あなたはつまり後発的【ジェネリック】な存在だ。
作品名の「ジェネリック」とは主人公の令子のことだったのです。
令子の正体という謎は、物語が進むにつれ哲学的な問いへと変わっていきます。
確固たる”絶対の私”とは何なのか。
これが本作の大きな魅力であり、毎話更新されるたびに読者コメント欄には多くの考察や感想が飛び交います。
クローンでもジルコニアンでもない「鯨井令子」。その正体が明らかになるに連れ、令子の心は大きく揺らいでいく…
私のことも無視とかじゃなく本当に見えていないみたいだった。
九龍も私も、まるで存在していないみたいに…
楊明と令子が買い物に行くため第二九龍を出ようとしたとき、衝撃の事実が明らかになります。
物語の舞台である第二九龍の謎を調べている青年グエンに、令子は引き留められるのです。
グエンはピザ屋に配達を依頼していたのですが、九龍の外からきたピザ屋には、令子の姿が見えないことが判明します。
見えてないのさ。
この九龍もアンタのことも、彼には見えていない。
この九龍には見える人と見えない人がいるんだよ。
主人公の令子は、特定の人にしか見えない存在。
物語の舞台である第二九龍も、実は既に取り壊されていて、廃墟になっていたのです。
しかし、ある条件を持った人にだけは再現された昔の第二九龍が見えて、その中で日々の生活を送ることができていたのです。
この九龍はわからないことばかり
取り壊され、再び現れた第二九龍城砦
死んだ人間と同じ顔。
存在しないはずの場所で存在している
存在していないはずの私
なぜーーー?
なぜ第二九龍は再現されたの?
なぜ私は生まれたの?
物語の舞台である第二九龍と令子自身の存在が揺らぐ中、令子がずっと胸に閉まっていた、根源的な不安が露わになっていきます。
令子の正体は、私たち全人類に共通する哲学的テーマ。仏教哲学の視点から令子の存在について考察する
工藤さんも、『何処へも行かない』って、言ってくれますか?
私、何処へ行ったらいいのかわからないんです。
自分の存在に関する、根源的な不安を工藤の前で打ち明ける令子。
この令子の言葉には、令子の正体に関する重要な鍵があるのではないかと、私は感じています。
- 【1】何処から来たのか
- 【2】何処へ行くのか
令子の正体は、この2点がハッキリするとき、明らかになるのではないでしょうか。
作中で令子が自己のアイデンティティに不安を抱く場面は、この2点が揺らいできたときです。
令子が渇望する“絶対の私”の実現は、この2点が根幹になっているといえるでしょう。
これまで令子は九龍にいて、多くの友人や職場の上司、そして想い人の工藤という周囲の人間に「鯨井 令子」という存在があることを認められてきました。
しかし、工藤や楊明といった一部の人間にしか自分が認識されないと分かったとき、令子は【1】を失います。
自分が何処から来た何者なのか、証明することができなくなったのです。
そして同時に、自分が何処へ行くのか、何のためにこの「鯨井 令子」の人生を歩んでいるのか…
つまり生きる意味が分からなくなったことで【2】もグラグラしてきたのです。
この第二九龍には“絶対の私”を渇望する人物がもう一人います。
それが、蛇沼みゆきです。
みゆきは半陰陽(両性具有)で、蛇沼グループ会長と愛人の間に生まれた子でした。
蛇沼グループ会長に母と人生を奪われてきたみゆきは、会長への復讐を生きる意味としていました。
鯨井Bの記憶を持たない令子のような存在「ジルコニアン」を生み出し、事故で息子を亡くした会長に息子そっくりのジルコニアンを造って絶望させてやろう…
そんな復讐を実現するための手がかりを求め、令子に近づいていたのです。
復讐に人生を捧げる理由を問われたとき、みゆきは令子と似たような発言をしています。
俺は生まれてこの方、自分に”絶対”というものを感じたことがない。
男とも女とも言い切れない身体で、
子孫を残せるわけでもなく、
人生は蛇沼に奪われた。
故郷の九龍さえも。
このままじゃ
自分が一体何の為に産まれてきたのか
わからない。
俺は…
私は…
生きる意味が欲しい……。
みゆきは香港に友人や育ての親がいて、現実世界に存在していることはハッキリしています。
しかし令子と同じく、”絶対の私”を求め、生きる意味を求め、会長への復讐に全てを捧げているのです。
本作の核となる”絶対の私”、つまり「本当の自分とは何か」というテーマは日経クロストレンドの記事で作者の眉月じゅん先生もご自身の作品のテーマとされていると明言されています。
これは読み切りも含めて過去の作品全てそうなのですが、私が描くマンガは「本来の自分とは何か」をテーマとしています。
本来の自分を取り戻すとか見つけるとか切り口はいろいろですが、今作に関しては鯨井のセリフにもある「絶対の自分」
――鯨井は過去がない人間なので、「本当の自分を探す」話になっていると思います。
なぜ令子の不安が私たち自身と重なるのか?生きる意味を問う物語としての価値
実は仏教では、私たち人間は皆、”絶対の私”がハッキリしていない存在だと教えられます。
もし、私たちが今見ている景色はすべて高性能な仮想現実世界で、現実世界の肉体は研究所でコールドスリープ状態で保存されているとしたら?
自分が確実にこの世界に存在していると100%言い切れる証拠は、誰も持たないはずです。
この世に自分が産まれた瞬間を見た生みの親、幼い頃から自分を知っている家族や友人、そういった他者が自分の存在を認めてくれるから、自分が存在していると安心しているだけ。
つまり、私たち人間は皆、周囲にいる他者を拠り所にしなければ、”絶対の私”をハッキリ証明することなど出来ないのです。
令子が何処から来て、何処へ行くのか。
令子の人生に、生きる意味はあるのか。
読者がこの先の展開が気になって仕方ないのは、この哲学的なテーマが、私たち自身のことでもあるからではないでしょうか。
仏教では生きる意味が分からないことは、古今東西すべての人間の根源的な不安であると説かれています。
九龍ジェネリックロマンスの世界に出てくる「ジェネリック・テラ」のような技術が実現するような未来になったとしても、生きる意味が分からない限り、人間の根源的な不安は無くならないのです。
そして仏教では同時に、すべての人間には生きる意味があるとハッキリ断言されています。
生きる意味を知り、産まれてきた目的を果たすことで、人間は変わらぬ幸せになれるとお釈迦様は説かれました。
“絶対の私”を知り、生きる意味を知りたいと思う令子の切なる願いは、私たち人類が幸せに近づくための第一歩なのです。