京大卒ニートの提唱する「持たない」幸福論と、仏教の幸福論

知り合いの方の紹介で最近読んだのが『持たない幸福論』(pha著 幻冬舎)です。

著者は京大卒で“日本一有名なニート”といわれるphaさんです。

この本ではphaさんの幸福な生き方とは何なのか、ということに書かれています。

私たちにとって、どうなることが幸せなのか? 幸せの理想像は誰でも持っているものであり、すべての人がそれに向かって日々努力をしているのではないでしょうか。

しかし、phaさんはその幸福の理想像こそ私たちを悩ませている、と話されているのです。幸福の理想像によって苦しんでいるとはどういうことなのか。また、仏教で説かれる幸福論とはどういうものなのかについてお話していきます。

「持たない」幸福論

phaさんは「持たない」幸福論で以下のように書かれています。

最近自分の周りを見ても、ニュースを見ても、生きるのがつらそうな人が多いなと思う。

  • 会社でうまく働けなくてつらい、
  • 薄給なのに仕事がキツくてつらい、
  • 職が見つからなくてつらい、
  • 収入が不安定で人生の先行きが見えなくてつらい、
  • お金がなくて生活が苦しくてつらい、
  • 結婚したいけれど相手が見つからなくてつらい、
  • 結婚したけどうまくいってなくてつらい、
  • 子育てで疲れ果ててつらい、
  • 親の介護の負担が大きくてつらい、
  • 家族と仲が悪くてつらい、
  • 自分が抱えている病気でつらい など

人によってつらい理由はそれぞれ違うけれど、常にみんな何かに追われるかのように余裕がなくて疲れていて…

上記のことがあてはまり、悩まれたり苦しまれている人ばかりではないでしょうか。私自身もいくつか当てはまり、まさにそのことで苦しんでいると感じます。

私たちは幸せになりたいと思っていて、幸せになるための選択を繰り返しています。その結果、幸せになれて当然のはずなのですが、なぜか心から幸せだと思えるときはわずかで、気が付くと苦しみ悩みを抱え込んでしまう。どうしてそうなってしまうのでしょうか?

その理由をphaさんはこう分析しています。

今の日本で生きるのがつらい人が多い原因は、単純にお金がないという問題より、社会を取り巻いている意識や価値観の問題が大きいと思う。今の社会では、生きていると常に外から内からプレッシャーをかけられているように感じる。

  • 「大学を出て新卒で正社員で就職しないと一生苦労するぞ」
  • 「ちゃんと働かないと年をとったらホームレスになるしかない」
  • 「X歳までに結婚してX歳までに子どもを作らないと負け組」
  • 「仕事も家庭も子育ても大人なら全部完璧にこなせるのが当然」
  • 「人生が苦しいのは自己責任、真面目に頑張っていればそうはならないはず」
  • 「病気になるのは自己責任が足りない、社会人として失格」
  • 「年金は将来もらえるか怪しいから自分で備えておかないとやばい」
  • 「親の介護や子どもの教育や自分の老後のためにX万円は貯金が必要」

みたいな感じだ。

(中略)

要は、多くの人が普通にこなせないものを「普通の理想像」としてしまっているから、みんなその理想と現実のギャップで苦しむのだ。

ほとんどの人が「正社員になれば、結婚すれば、子どもができれば、昇進して仕事が一人前にこなせるようになれば、これだけお金をためれば幸せになれる。だからがんばろう(がんばりなさい)」という幸福観をもって一生懸命、生きています。しかし、私たちはその幸福観と現実とのギャップで悩んだり、苦しんだりしてしまっていると言われているのです。

だから、そんな現状と合っていない価値観からは逃げていいのであり、そんな価値観に従うのは自分で自分の首を絞めるだけだとphaさんは見られ、その後に「持たない」幸福論を展開されているのです。

あらゆるものに満たされても、心は満たされない

私たちは幸福観と現実とのギャップで苦しんでしまっています。では、そのギャップを埋め、なんとか幸福の理想像を実現できている一部の人たちは、果たして幸せな生活を送れているのでしょうか?

正社員で就職し、結婚して、子どもにも恵まれ、順調に昇進を重ねる。親の介護や子どもの教育や老後に向けての貯金も十分にあるような人は常に充実感に溢れ、心から満たされた生活を送られているかというと、それも疑問に思いますよね。

正社員になれば派遣社員ほど解雇される心配は低いように思いますが、今は東証一部上場企業でも倒産したり、業績悪化により数千人規模の大規模リストラが実施されたりしています。正社員はもはや、安泰な身分ではありません。

結婚すれば結婚相手との関係に悩み、子どもができれば子どもの教育でも悩みを抱えます。健全に育ってくれればいいのですが、子どもが病気になったり事故に巻き込まれたり、いじめにあってしまったりとトラブルに見舞われかねません。昇進すればそれだけ抱える仕事も増大し自己責任も多くなり、自分だけでなく部下のことも考えねばなりませんね。

高水準な生活を維持・管理をしていくのは本当に大変です。気を抜けば、積み上げてきたものが崩れてしまう。そのプレッシャーと常に戦い続けなければなりません。

かといって、それらを求めない生き方を選択すれば、それはそれで不平・不満が出てきます。「これがあればもっと満足できるのではないか」「あれに恵まれれば、こんな不満はなくなるのに」という思いも尽きないですね。

仏教の幸福論 -有無同然-

それでは、仏教では私たちはどうすれば心から幸せな生活を送ることができると説かれているのでしょうか。

仏教に「有無同じく然り」という言葉あります。

これは「ものや人が、有っても無くても同じである」ということです。

有るのと無いのと全然違うじゃないかと思いますが、この言葉には続きがあります。

それが「憂き思適に等し(うきおもい まさにひとし)」で、これは「有っても無くても、憂き思(悩みや苦しみ)を抱えていることに変わりはない。常に心配の種は尽きず、満たされない心の状態は同じである」ということです。

もの(お金、仕事、肩書き)や人(パートナー、子ども、友人)が無い状態は不平や不満があり、当然苦しいのですが、それらに囲まれていてもその維持や管理が悩んだり苦しんだりしている。喜びが満たされ切れない心の状態が同じである、といわれているのです。

そんな状態の私たちはどうすれば悩みや苦しみから解放され、心から満足することができるのでしょうか。

それは周りのものや人、環境に問題があるのではなく、私たち自身の心に問題があると説かれています。心そのものが“暗い”状態なので、いくら周りのものや人、環境に恵まれても心そのものが満たされないのです。

ちょうど、インフルエンザのような高熱にかかると、いくら霜降り肉のステーキや高鮮度の高級寿司を並べなられても、全く食べられなく苦しんでいるのにたとえられます。料理の質の問題ではなく、自分自身の体調こそが問題なのですね。

インフルエンザが全快すれば料理の質に関係なく、おいしくご飯を食べることができます。高級料理はもちろん、たとえ塩ご飯であったとしても全快した喜びで十分、満たされた思いになります。ちょうどそのように、私たちの暗い心が明るい心になれば、有っても無くてもずっと幸せな状態になれる。これが仏教の幸福論です。

もちろん、お金ももの何も全く無ければ生きること自体ができなくなるので、それなりに有る状態になる努力も不可欠ですが、幸せになれない根本的な問題は私たちの心そのものにある、ということですね。

この記事をきっかけに、有っても無くても満たされるという仏教の究極の幸福論について関心をもたれれば嬉しく思います。

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