「舞台『刀剣乱舞』」愛称「刀ステ」は刀剣育成シミュレーションゲーム『刀剣乱舞-ONLINE-』を原作とする演劇作品群。
先月末にはシリーズ集大成となる「舞台『刀剣乱舞』悲伝 結いの目の不如帰」の大千秋楽公演の上演、ライブビューイング配信がありました。
筆者は脳死周回が日課のゴリラ審神者でしたが、友人から推しのへし切長谷部が出ているからと勧められて鑑賞した「虚伝 燃ゆる本能寺」で刀ステ沼に沈没。
「悲伝」は集大成ということで、完結編になるのかと不安を抱えながら京都劇場で初観劇、大千秋楽ライブビューイングも鑑賞させて頂きました。
しかし「悲伝」は結びでありながら始まりといえる物語で、今後の展開にも期待が膨らみます。
来年は『映画刀剣乱舞』も公開予定。
鈴木拡樹さんをはじめとする「刀ステ」で刀剣男士を演じてきた俳優さんが劇場版の本丸でも登場されることが決まっています。
劇場版を機に、同じ俳優さんが出演される「刀ステ」に関心を持たれる方も今後増えてきそうです。
筆者の周りには小夜左文字が大好きな方が多いのですが、刀ステシリーズの中でも『義伝 暁の独眼竜』はすべての小夜ちゃんクラスタにオススメしたい!と思う作品で、友人にもゴリ押ししてきました(笑)
刀ステは全作品、セリフを暗記するくらいBlu-rayを見ているのですが、中でも友達にオススメしてきたのが『義伝 暁の独眼竜』です。
前回は『義伝 暁の独眼竜』の『悲伝』に繋がる伏線となる三日月宗近のセリフについて考察しました。
今回は友人が愛してやまない小夜左文字を中心に『義伝 暁の独眼竜』をご紹介、小夜ちゃんが教えてくれる人間の心の深層を伝えたいと思います。
【ネタバレ注意】何かに悩む小夜に、近侍の山姥切国広は…『義伝 暁の独眼竜』あらすじ
「休んでいる暇なんかありません。僕は、復讐しなくちゃいけないんです」
『義伝 暁の独眼竜』の時間軸は、近侍の山姥切国広と、本丸の皆から弟のように可愛がられている小夜左文字が帰って来るところから始まります。
山姥切は小夜を気遣い先に休むよう言いますが、小夜の反応はどこか不自然でした。
小夜は何かに悩んでいるようで
「……僕は……復讐しなくちゃ……」
と思いつめたように独り言を言う姿も目撃されるようになります。
小夜の様子を心配した山姥切は、悩みを聞き出そうとしますが、人の心配をすることに慣れていないため空回りしてしまいます。
さらに小夜と同じ細川家にあった歌仙兼定も、伊達政宗を元主とする大倶利伽羅と大喧嘩してしまい本丸はさらに難しい状況に。
山姥切がトラブルの絶えない本丸に悩んでいたところ、主から「遠足にでも行ってみたらどうか」という提案がありました。
遠足の最中、馴れ合いを嫌う孤高の存在・大倶利伽羅は森の中を一人で歩いていたときに人の気配を察知し、出てくるよう促します。
後をつけていたのは、小夜左文字でした。
小夜「……うちの歌仙兼定が迷惑をかけてすみません」
大倶利伽羅「それをわざわざ謝りに来たのか?」
小夜は自分と同じ細川家の刀・歌仙兼定が大倶利伽羅と喧嘩したことを気にかけ、歌仙の代わりに謝りに来たのです。
悩みがあって苦しんでいても、周りの気遣いを忘れないお小夜の優しさが溢れるこのシーン。
そして大倶利伽羅との会話で小夜が悩んでいた理由が露わになります。
小夜「……僕の名前は幽斎さま(細川幽斎)が、西行法師の歌から名づけてくれたんです……
年たけて、また超ゆべしと思ひきや、命なりけり小夜の中山」
伽羅「歌になど興味はない
……だが、美しい歌だ」
いつも寡黙な大倶利伽羅の意外な反応に、小夜も珍しく言葉数が増え自身の物語を語り始めます。
……でも僕が見い出されることになった理由は
そんな美しいものじゃありません。
細川にいく前、僕はある夫婦の元に在りました
貧しかったその夫婦は幼子と三人で寄り添いあって生きていた。
でも夫に病で先立たれ、生活に困った妻は、刀だった僕を売りに出すため に小夜中山峠を越えようとした。
しかし妻は不幸にも山賊に遭遇して殺されてしまい、生活のために売ろうとしていた短刀(小夜左文字)を奪われてしまいます。
月日が経ち、生き残った赤子は研ぎ師になりました。
師匠に研ぎ師を目指す理由を聞かれたとき、彼はこう答えます。
「幼き頃、私は母を賊に殺されました。
手掛かりは賊が母から奪った左文字の短刀のみ。
だから私は研ぎ師となり、いつかその賊が奪った短刀を研ぎにやってくるのを待ち構えるのです。
どれだけ時間がかかろうとも、私は復讐を果たさねばなりません
盲亀の浮木、優曇華の花待ちたること如し……」
長い時が経ち、研ぎ師となった息子の前にひとりの浪人がやってきます。
手に持っていたのは、母親を殺した賊が奪っていった左文字の短刀でした。
「今こそ、復讐を果たす時ぞ」
長い時をかけて、研ぎ師の復讐は果たされました。
しかし小夜左文字はその物語を背負って人の心を得たことで、苦しんでいたのです。
僕は、その物語をうけついでいます。
だから復讐の念に囚われてしまう。
もう復讐は果たされているはずなのに……
小夜が苦しんでいたのは、元の主から受け継いだ「復讐」の怨念でした。
研ぎ師の復讐は既に果たされているのに、小夜の心には「復讐」が渦巻いている。
そんな自分を誇りに思えず、小夜は一人悩んでいたのです。
強くなっても消えない復讐の心。小夜が悩み苦しんでいた「復讐」の正体とは
原作ゲームの熱狂的なファンである筆者は、小夜ちゃんの名前の由来は知っていました。
しかし小夜ちゃんの物語が影絵で描かれるこのシーンは、何回見ても気づいたら目から冷却材です。
初鍛刀の薬研ニキ以外、短刀を育てていなかった筆者が急に小夜ちゃんをレベル1から極にしたほど、お小夜が大好きになったきっかけのシーンです。
小夜が大倶利伽羅に自身の物語を語った後、刀剣男士たちは伊達政宗に接触しようとする時間遡行軍を見つけ交戦することに。
しかし小夜は黒い甲冑に取り憑いた時間遡行軍によって重傷を負い、しばらく意識が戻らなくなります。
主の命を受けた大倶利伽羅たちが、関ヶ原の戦いに出陣している間に小夜は夢に魘されていました。
ーーー幼き頃、私は母を賊に殺されました
ーーー手掛かりは、賊が母から奪った左文字の短刀のみ
ーーーどれだけ時間がかかろうとも、私は復讐を果たさねばなりません
ーーー復讐を……復讐を……母を殺したあの男に復讐を
研ぎ師が賊を殺した瞬間に夢から目を覚ました小夜。
そこへ山姥切国広がやってきます。
「山姥切さん
……強いってなんですか?
僕は……強くなろうと思ったんです。
でも、いくら剣の腕前が上がっても、いくら敵を倒しても、強くなれた気がしないんです」
小夜はようやく決心がつき、山姥切にすべてを打ち明けます。
小夜「……僕の心には、怨念が渦巻いています」
山姥切「……復讐か」
小夜「元の主だった研ぎ師の復讐はもう果たされたはずなのに、僕の体の中は黒い復讐の心でいっぱいなんです。
僕は、復讐の物語で満たされたこの心を、誇りに思うことはできません……」
実は小夜が山姥切を避けていたのは、近侍の山姥切を煩わせたくないと思っていたからでした。
「復讐」は自分の心の問題なのだから、一人で解決しようと思っていたのです。
誰にも相談できない小夜は、大倶利伽羅や燭台切光忠たちのような伊達家にあった刀剣男士に憧れ「強くなる」ことで解決しようとしていました。
言い換えれば小夜は、強くなることで復讐の心を消そうとしていたのではないでしょうか。
しかし実際は「いくら剣の腕前が上がっても、いくら敵を倒しても、強くなれた気がしない」。
小夜を演じる納谷健さんが生み出す殺陣のレベルの高さでも表現されているように、小夜の戦闘力は非常に高度な域に達しています。
それでも復讐の心は全く消えない。
断ち切れないどころか、眠れば夢の中で研ぎ師の復讐の言葉が反芻されていました。
「復讐」は人間を苦しめる煩悩 小夜ちゃんが語ったセリフから学ぶ「復讐」の本当の意味
「復讐」という行為の根っこにある「恨み」という心は、仏教では煩悩の一つだと教えられます。
すべての人間には108の煩悩があり、中でも私たちを特に苦しめる煩悩である「三毒」、つまり三大煩悩の一つが恨みの心です。
人の心を毒する三つの根本的な煩悩。
貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・愚痴。
貪瞋痴。
(大辞林 第三版)
「愚痴」という言葉は不平不満を漏らすことという意味で今日使われていますが、元々の意味は妬みや嫉み(そねみ)そして「恨み」の心です。
※(参考)こちらの記事に「恨み」「妬む」「嫉む」の違いが解説されています。
『義伝 暁の独眼竜』の前にあたる物語『外伝 此の夜らの小田原』では、小夜は元主・信長に執着し続けるへし切長谷部に
「長谷部さんは信長さんを恨んでいるんですか?
復讐…しますか?」
と問う場面があります。
小夜がこのセリフで教えてくれているように「復讐」の本質は恨みの心です。
そして「恨み」という煩悩は、悩ませ煩わせると書く漢字の通り、私たち人間を苦しめ、悩ませる心です。
小夜は研ぎ師の亡霊に憑かれているのではなく、自分の心という煩悩に苦しんでいました。
近侍として重責を担う山姥切に気を遣っている所からも分かるように、小夜は非常に人の心をよく見ています。
刀剣男士たちが受け継いでいるのは元の持ち主である「人間」の心。
私たちは自分では中々気づきませんが、一見平穏な日々を送っていても恨みや妬みの心を持たずに人間は生きていけません。
「冷蔵庫に入れていた私のプリンを妹に食べられた!」
「満員電車で足を踏まれた!」
など日常のあらゆる場面で、大なり小なり「復讐」の心は湧き上がるものです。
自分の心を深く見つめていた小夜は、折に触れて吹き上がる自身の恨みという煩悩に何より苦しんでいたのではないでしょうか。
(ちなみに小夜がここまで思い詰めた理由は『外伝 此の夜らの小田原』で明らかになります。)
小夜の苦しみの正体が分かった山姥切は見抜いたようにこう言います。
「小夜、お前は復讐の物語を背負っていると言ったな。
すでに果たされたあと、どこにも行く当てのなくなった復讐の心に囚われていると。
ならば……
俺に復讐してみろ」
山姥切国広が小夜に伝えたかったのは「復讐」という煩悩との向き合い方
小夜「え?」
山姥切「俺が、お前の復讐の心を受けてやる」
いくら肉体的に強くなっても消えない「復讐」の心に苦しんでいた小夜に、山姥切は「復讐の心」を打ち込んでみろと言い、小夜は復讐の怨念を込めて刀を打ち込みます。
本丸の道場で一晩中打ち合った二人。
明け方、精も根も尽き果てた小夜は床に倒れ込みます。
山姥切「……復讐の心は晴れたか?」
小夜「……いえ……復讐は、僕の中に在り続けています」
山姥切「……ならば、その復讐の心は、お前自身だ。
あとはお前がそれをどう受け止めるかが大切なのではないか?
答えが見つからないなら、探し続けるしかない。
俺は写しだが、それぐらいのことはわかる」
私たちの煩悩は決して無くなることがなく、108から減ることもありません。
鎌倉時代の日本の仏教書にも煩悩について
臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず
と説かれてる部分があります。
煩悩は死ぬまで消すことも少なくすることもできない。
復讐という恨みの心も煩悩ですから、いくら肉体が強くなっても消すことはできません。
そんな「復讐」の本質を知らせるため「復讐」の心を自分に打ち込んでみろと言った山姥切の
「……ならば、その復讐の心は、お前自身だ」
というセリフには、非常に深い人間哲学が現れているように思います。
私たちは煩悩の所有者で、要らないときは煩悩をポイッと捨てられる訳ではなく煩悩が「自分自身」なのです。
しかし自分と一体化しているものを自覚するのはとても難しいもの。
小夜が山姥切に復讐の心を一晩中打ち込んでいたように、減らそうとして初めて分かる心が煩悩です。
仏教には「煩悩即菩提」という言葉があります。
「菩提」とは幸せという意味で、煩悩を持ったままで人間が幸せになる道を説かれたのがブッダでした。
煩悩で苦しんでいる人間がそのままで幸せになるには、自身が苦しんでいる煩悩について知ることが第一歩と教えられます。
「復讐」という煩悩が消せないことを知らされた小夜は、山姥切とこんな言葉を交わしていました。
小夜「山姥切さん……ありがとうございます……」
山姥切「見ろ小夜……夜明けだ」
その表情はどこか晴れやかで、小夜は自らの意思で「極」になる修行の旅に出るほどに成長します。
明け方、皆に黙って修行に行こうとするところを三日月宗近に見つけられた小夜は
「復讐は……僕の全部です」
と言い切って自分の心と向き合うため、旅立っていきます。
先の見えない暗い人生の夜明けに必要なのは、自身の心を見つめること。
消すことも減らすこともできない煩悩が自分自身だと気づくことが大切だと、小夜ちゃんとまんばちゃんは教えてくれているような気がします。
※「義伝 暁の独眼竜」の ストーリー紹介はこちらから台詞の一部等を引用させて頂きました。書籍版に無いセリフは「舞台『刀剣乱舞』義伝 暁の独眼竜」Blu-ray収録内容から筆者が聞き取ってご紹介しています。
末満健一(2018)「戯曲 舞台『刀剣乱舞』義伝 暁の独眼竜」ニトロプラス