言峰 綺礼の人生から学ぶ「本当の私」【中編②】|Fate/Zeroから学ぶ仏教

今日12月28日は、『外道麻婆』こと言峰 綺礼の誕生日ですね!

黒幕として暗躍する役が多いながらもFateファンから人気を誇る言峰神父。

ワインを飲みながら麻婆豆腐を食べてお祝いする方もおられるかもしれませんが、20代からの仏教アカデミーではFate/Zeroの言峰 綺礼を仏教の視点から見つめ、彼が死ぬまで探し求めた『本当の私』について、深く考えてみたいと思います!

また、この記事の内容は

言峰 綺礼の人生から考える『本当の私』【前編】|Fate/zeroから学ぶ仏教[2] | 20代からの仏教アカデミー 言峰 綺礼の人生から考える『本当の私』【前編】|Fate/zeroから学ぶ仏教[2] | 20代からの仏教アカデミー
人によって評価はガラリと変わる?言峰 綺礼の人生から考える『本当の私』【中編①】|Fate/Zeroからの仏教[ 3 ] | 20代からの仏教アカデミー 人によって評価はガラリと変わる?言峰 綺礼の人生から考える『本当の私』【中編①】|Fate/Zeroからの仏教[ 3 ] | 20代からの仏教アカデミー

の続きになります。

(単体でも読めますが、前編を読んで頂けるとより分かりやすいかと思います(o^-^o))
前回に引き続き、私の大好きな作品Fate/Zeroから、仏教の深さをお伝えできたら幸いです!

※前回同様、「これからFate/Zeroを見ようと思っているので、ストーリーの内容を知りたくない!」という方はお気をつけ下さい。

スマホゲーム、Fate/Grand orderが現在好評稼働中のFateシリーズ。そのスピンオフ作品であり、根強い人気から現在アニメも再放送中のFate/Zero。

この作品に登場するキャラクターから、私たちが学べることを仏教の視点から考えていくシリーズがこの記事になります。

Fate/Zeroの重要な登場人物であり、エリート聖職者『代行者』の言峰 綺礼。

前回まで『本当の私』が分からずに悩み苦しんでいた綺礼の姿を追いながら、仏教では『本当の私』はどのような姿だと教えられているかをお伝えしていました。

古代ギリシャの時代から『汝自身を知れ』といわれていたように、『本当の私』とはなかなか分からないものです。それはあまりにも近い存在だからです。

顔についた米粒を発見するのには、鏡を使うように仏教では私たちが近すぎる自分を見るために用いる鏡について、教えられています。

鏡というものは、私たちの姿を正しく映してくれるかどうかが重要です。私たちが自己を知るのに用いる鏡の中にも、たった一つ「ありのまま」の私、つまり『本当の私』を映してくれる鏡があります。

前回は他人からの評価という鏡は、どうしても見る者の都合が入ってしまうので、『本当の私』を映すことができないという内容をお伝えしました。

では他人ではなく、自分の心に映した『私』は都合が入らないからありのままの私といえるのでしょうか?

自分の心という鏡『良心』『倫理観』から見た綺礼の姿

自分の心に自身の姿を映すとは、道徳的良心を鏡として、自己反省をするということです。

「一日三省」というように、自己を振り返ることは大切ですね。反省がなければ進歩も向上もなく、同じ失敗を繰り返すばかりでしょう。

しかし、いかに厳しく自己を見つめようと努めても、人間は自分の考えや感情の色メガネをはずして何かを見ることは不可能です。

仏教の言葉に「一水四見」という言葉があります。

人間にとっての河(=水)は
天人にとっては歩くことができる水晶の床
魚にとっては己の住みか
餓鬼にとっては炎の燃え上がる膿の流れ

同じ水でも、人間が見た時、天上人が見た時、魚が見た時、餓鬼が見た時にまったく違ったように見えてくるという言葉です。人間にとっては河であり飲み物に、天上人には床に、魚にとっては住処に、餓鬼は炎に見えます。同じものでも、自分の立場や状況が変われば全く違ったものになります。

私たちの目も同じです。自分の感情や思いを抜きにして、客観的に物事を見ることは絶対にできません。私が見ている世界は、私の心が映ったものなのですね。

まして『自分かわいい』になってしまいがちなのが私たち。

どうしても自分を悪く見ることはできないので、ありのままの自分を見つめるのは非常に難しいのです。

それゆえ自己反省は、往々にして『ひいき目(欲目)』によって甘くなってしまいます・・・

周囲の人の短所はすぐに目につきます。「あの人の短所を挙げろ」と言われたら、いくらでも頭に浮かんできます。

しかし

「自分の短所は?」

と言われたらどうでしょう?

10個も20個も挙げられる方は少ないのではないでしょうか。よほど自己を厳しく見つめていないと、自分の短所をいくつも挙げるのは難しいものです。

仮にあげたとしても本当にそう思っているでしょうか。

「自分は少しルーズなところがある」と思っていたとしても、他人から「君って本当にズボラだね」と言われたら、カッとしますよね。本心ではズボラとは思っていないからです。そうかもしれないけど、あの人よりはマシと思っているのです。自分へのひいき目ですね。

それは自分に近い存在である、生んで育てたわが子もそうです。

「うちの子に限って」というマジックワードがあります。子どもがいじめや万引きをした時に第一にその親に連絡がいきます。その時の第一声は決まって

「うちの子に限ってそんなことは・・・」

だそうです。

これは「私が生んで育てた子どもがそんなことをするわけない」という心理が働いています。なぜ自分ではなく他人の子どもならいいのでしょうか。おかしい話です。

しかし、この親のひいき目、通称「親バカ」とも言われますが、持っていない親はまずないでしょう。どんな親でも自分の子どもは可愛いものです。そしてその理由は「自分の」子どもだからというのは大きく、自分がいちばん可愛いのです。他人の子どもには親バカにはなれません。

父親も見抜けなかった綺礼の『本当の私』

綺礼の父親、言峰 璃正もまた息子の『本当の私』を見抜くことができなかったという点で、「欲目」が入っていたのではないでしょうか。

この記事の前編にもご紹介しましたが、璃正は息子のことを

「同僚たちの中でも、アレほど苛烈な姿勢で修業に臨む者はおりますまい。見ているこちらが空恐ろしくなる程です。」

「アレは信心を確かめるために試練を求めているような男です。苦難の度が増すほどに、アレは真価を発揮することでしょう。」

『Fate/Zero 1 第四次聖杯戦争秘話』より

と称し、他人の前でも憚らずに『あんなにも良くできた息子を授かったことが畏れ多いぐらいです』と、聖職者の鑑のように褒めちぎっていました。

そして聖杯戦争が始まりました。綺礼は元々魔術と縁のない生まれだったにも関わらず、時臣から学んだ魔術により、スパイ活動に特化したサーヴァント「アサシン」を無事召喚します。

アサシンを見事に駆使し、時臣の敵である他のマスターたちの動向を情報収集していく綺礼。

息子のこの活躍をみて璃正は

「綺礼は実によくやっている。

俄仕込みの魔術師でしかない彼が、ここまで敏腕のマスターとしてサーヴァントを御するとは、時臣とて予期していなかっただろう。

信仰のため、教会のため、そして亡き友との約束のために、自慢の一人息子が持ち前の有能さを発揮して尽くしている。

それは父親としてこの上もなく誇りに思える成果であった。」

『Fate/Zero 1 第四次聖杯戦争秘話』より

と思っており、聖杯戦争が始まってからも息子の活躍を誇りに思っている様子が描かれています。

しかし前編でもご紹介したように

物心ついた頃から『本当の私』について考えていた綺礼自身は

“いつの日か、より崇高なる真理に導かれるものと、より神聖なる福音に救われるものと信じて生きてきた。その希望に賭けて、縋った。

だが心の奥底では、綺礼とて、すでに理解してしまっていたのだ。もはや自分という人間は神の愛をもってしても救いきれぬと。“

と感じていました。
父親が褒め讃えてくれる『言峰 綺礼』像は本当の自分とは遠く離れた姿だと、綺礼は漠然と感じていたのです。

自分自身でなくても、「自分に近い」存在であるわが子ですら、欲目で正しくみられないのが私たち。

まして、自分自身のこととなれば「欲目」が邪魔をして、もっとありのままに見ることは難しいものです。

『本当の私』が分からず悩んでいた綺礼は、死に物狂いで修行や任務に打ち込みます。その結果、肉体的には殺戮兵器といえるほどの鋼のような体を手に入れました。

そして精神的にも厳しい求道を続け、『道徳的良心』を磨き『自己反省』をくりかえし、高い倫理観を培いました。

つまり綺礼は、『自分の良心、倫理観』という鏡をピカピカに磨き上げ、全身くまなく映せるほどに大きくしたといえます。

しかしこれほどしっかりとした道徳観や倫理観によっても『本当の私』がどうしても分からず綺礼は苦しんでいたのです。

高い倫理観を備え、自身の倫理観に沿った行いを続けてきた綺礼は、父に、師匠に、周囲の人間に、『聖職者の鑑』として賞賛を受け、エリート代行者として名誉を得ていきました。

しかし『本当の私が知りたい』『自分が本当に望んでいることは何か知りたい』という綺礼の根本的な心の闇は、信仰に生き倫理観をいくら磨いても分かりませんでした。
そしてその懊悩は、名誉を得ることでは解消されない。彼をほめたたえる周囲の誰にも理解されず、深まっていく一方だったのです。

青年時代の綺礼を見ていると、透徹した道徳・倫理観をいくら磨き上げても『本当の私』は分からないことが、分かります。

さてこの後綺礼は、ギルガメッシュというサーヴァントと出会ったことで、大きく運命の歯車が狂っていきます。
昔からのFateファンの方々からすれば、俺(私)たちの知っている『外道麻婆』の誕生!へと近づいていく過程が描かれる訳ですね。

そして綺礼を聖職者の鑑として誇りに思っていた父、璃正神父は、聖杯戦争が苛烈な殺し合いへと突入する中、ある人物に射殺されてしまいます。

Fate/Zeroアニメ17話では、璃正の死を知ったギルガメッシュは、綺礼にこう言います。

「哀れな父親だ、息子を聖人と信じて疑わずに逝ったのだからな…」

ギルガメッシュは、ひょっとしたら「欲目」で息子の『本当の私』を知ることのできなかった璃正を嘲笑っていたのかもしれませんね。

そういえば私も就職活動をしていたとき、こんな経験をしたことがあります。

就職活動中、就活対策のセミナーで「自己分析」をしましょう!という授業内容があり、何人かの友人に紙を渡して「私の長所と短所を正直に書いてください」とお願いしてみましょう、という宿題が出ました。

早速友人たちにお願いしたら、みんな気を遣って長所しか書いてくれなくて短所が全然分析できませんでした(笑)
自己反省で自分のことを「ありのまま」に映すのは、自分かわいい欲目でなかなかできない。

かといって周囲の人は、『友達を傷つけて嫌われたくない』という都合が入るので、「ありのまま」に私を映すことはできない。

おそらく私も、普段本音を言い合うような友人に頼まれても、紙に文字として残る形で『私の短所をここに書いて』と言われたら、嫌われたくない、という自分の都合がどうしても入ってくるのではないかと思います。

『他人からの評価』という鏡も『自分の良心・倫理観』という鏡も『本当の私』を映すことはできないと感じた出来事でした。

『本当の私』を映してくれる鏡―仏教という『法鏡』

『他人からの評価』は都合で曲がり、『自分の良心・倫理観』は欲目で曲がる。『本当の私』を映してくれる鏡はあるのでしょうか。

お釈迦さまは80歳でお亡くなりになられていますが、そのご臨終にお弟子の一人が尋ねました。

「お釈迦様、45年間お説きくだされたこの教えを一言で表したら、なんとお呼びしたらよろしいでしょうか?」

仏の悟りを得てから45年、長い期間をかけて教えていかれた教えを、一言で表してください!なんて、なかなか無理難題な感じがしますね(>_<) しかも亡くなられる直前という苦しい状態のときにこんな難しい質問をされて、答えることなんてできるの?! という感じがしますが、そこはさすが、お釈迦さまです。

「仏教は法鏡なり。 汝らに法鏡を授けるであろう」

とズバリ一言で答えられています。

「法鏡」とはどんな鏡でしょうか。

「法」とは、古今東西変わらないもの。いつでもどこでも変わらない真理のことです。そういうものだけを仏教で「法」といいます。

そして法鏡とは、ありのままの自己の姿を映す鏡です。『本当の私』を映してくれる鏡とは『法鏡』と教えられています。

目に何か入っているようでチクチクする・・・。こんな時、遠くにある鏡で自分の顔を見ても分かりませんが、鏡に近づけば、まつげが目に刺さっているのか、ゴミが入ったのか、すぐに分かります。

また遠目で鏡を見ているときは「私ってまだ学生に見えるかも~~♪」と思っても、鏡に近づいてみると実は目元に小さなシワが!!がーん!!

なんてこともあります。

鏡に近づけば近づくほど、遠目では気付かなかったことに気づいてくる。

同様に、法鏡に近づけば近づくほど、“こんなわが身であったのか“と、思いもよらぬありのままの『本当の私』がみえてくるという訳です。

法鏡に近づくとは、仏教を聞くということ。仏教を聞くことがそのまま、「ありのままの自己を映す鏡を見る」ということになるのです。

では、その法鏡に映し出された『本当の私』とはどのような姿なのでしょうか。

次回の『後編』は少し着眼点を変えながら、Fate/Zeroの綺礼が悩み続けたこの疑問の答えをさらに探っていきたいと思います。

ここまで読んで下さって、ありがとうございました!(*^▽^*)

参考リンク

小説版1巻が以下から読むことができます!無料です!
Fate/Zero 1 全文公開中! | 星海社文庫『Fate/Zero』 | 最前線 Fate/Zero 1 全文公開中! | 星海社文庫『Fate/Zero』 | 最前線