【刀ステ悲伝・考察】「鵺と呼ばれる」から知る「ぼくはだれ?」が分からない私たちの苦しみ

【2018/10/25投稿 ※2020/05/31 加筆修正しています】

「……わからない……ぼくは……だれ……

おしえて……ほねばみ……」

「刀ステ」六作目となる「舞台『刀剣乱舞』悲伝 結いの目の不如帰」はシリーズ集大成となる作品。

悲伝』は衝撃的な展開から様々な解釈が飛び交い、ファンによる考察が盛んに行われました。

シリーズ全体の伏線を回収する深いストーリー構成とともに、上演直後から話題になったのが「鵺と呼ばれる」という登場人物です。

昨日、2020年5月30日に「舞台『刀剣乱舞』悲伝 結いの目の不如帰」の大千秋楽公演が無料配信され大きな反響を呼び、様々な感想や考察がTwitter上に投稿されています。

このコラムでは『悲伝』の魅力を改めて振り返り、「鵺と呼ばれる」が苦しんだ「自分とは何か」という問いかけから、私たちにも共通する深い人生哲学をお伝えします。

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【2020/05/31】「戯曲 舞台『刀剣乱舞』悲伝 結いの目の不如帰」を購入させて頂いたので、戯曲の内容を元にセリフ等を修正しました。

【ネタバレ注意】『悲伝』あらすじ・展開の鍵を握る「鵺と呼ばれる」とは

鵺と呼ばれる」の登場から『悲伝』の物語は始まります。

時は永禄八年に起こった永禄の変。

室町幕府第十三代・征夷大将軍 足利義輝が三好義重・松永久通らの手によって最期の時を迎えようとしていました。

そこに歴史改変を目論む時間犯罪者「歴史修正主義者」が2205年の未来から過去に送り込んだ軍勢「時間遡行軍」が出現。

足利義輝の死の定めを覆そうとします。

時間遡行軍に対抗する歴史の守り手「刀剣男士」は、「審神者(さにわ)」という能力者の手によって刀剣から励起された戦士たち。

時間遡行軍の出現を聞いた刀剣男士たちも永禄の変に現れ、敵を殲滅していきました。

死にゆく足利義輝を残し、未来へ帰っていった刀剣男士たち。

しかし義輝にはまだ息がありました。

義輝は虫の息で、松永久通たちが死出の供にと置いていった愛刀たちに手を伸ばします。

「……まだじゃ……まだ終わらぬ……

儂は……こんなところで……死ぬわけには……

刀たちよ……」

最期の言葉を残し義輝が息絶えた所には、この季節に咲くはずのない満開の桜がありました。

死した義輝の体から、おびただしい量の血が流れ出る。

その血は地面に染み込み、桜の根に吸い上げられていく。

満開に咲き乱れる狂い桜が、血に赤く染まっていく。

やがて、一輪の血桜が地面に舞い落ちる。

血桜が真紅の花弁を散らすと、ひとりの剣士が顕現する。

刀剣男士から、のちに《鵺と呼ばれる》こととなる剣士だ。

道半ばで果てた義輝の無念が、義輝の持っていた複数の刀に宿った存在が「鵺と呼ばれる」でした。

存在するはずのない「刀剣男士」が生まれるところから『悲伝』の物語は始まっていきます。

「だが、おぬしは歴史に存在するはずのない刀といえる……

歴史の異物か」

刀剣男士・三日月宗近は大阪冬の陣に出陣したとき、「鵺と呼ばれる」に遭遇し、このような言葉を残します。

足利義輝が最期に抱いた生への未練と強い無念が複数の刀に宿った、歴史に存在するはずのない「刀剣男士」が「鵺と呼ばれる」だったのです。

そして三日月は、実は「円環」と言われる時間のループの中にいて「刀ステ」で描かれているこの本丸を何度も巡っていました。

三日月が気の遠くなるほど長い間、円環を繰り返してきた中で初めて出現した存在が「鵺と呼ばれる」だったのです。

「義輝の刀よ。

俺は賭けてみたいのだ。

この終わりなき戦いの中に、

なぜおぬしが現れたのか?

なにがおぬしを必要としたのか?」

ある目的のために円環を続けていた三日月は彼に望みを見出し、とどめを刺さずに見逃します。

この場面を仲間の燭台切光忠が目撃していたことから、本丸の物語は大きく動いていきます。

※「舞台『刀剣乱舞』悲伝 結いの目の不如帰」ストーリー全体についてはこちらのコラムでご紹介しています。

【刀ステ悲伝・感想】三日月宗近から「悲伝」の本当の意味を考察する(大千秋楽公演ネタバレ有り)

「ぼくはだれ?」鵺は「自分とは何か」が分からない苦しみを抱えながら戦う

複数の刀剣から生まれた、歴史上存在するはずのない「刀剣男士」。

名前を持たないために名乗ることもないその戦士は、刀剣男士たちに「」と仮の名を付けられます。

「鵺」と同じく、足利義輝の愛刀の一振りだった骨喰藤四郎は「鵺」と交戦したときこんなやり取りをしていました。

骨喰「待て?お前は誰だ!?」

鵺と呼ばれる「……ぼくは……だれ……?

骨喰「……?」

鵺と呼ばれる「……わからない……ぼくは……だれ……

おしえて……ほねばみ……」

後に同じく義輝の刀である三日月と刀を交えたときも「鵺」は苦しみ始め、地を這うようにのたうち回り叫びます。

……ぼくは……わたしは……

おれは……だれだ……?

「鵺」は何の刀から生まれたかを特定できないため自分が何者なのかを定義することができません。

三日月宗近や骨喰藤四郎のように自身が生まれた元となる刀剣を持たず、自分は何者なのかが分からない鵺は「ぼくはだれ」と苦しんでしました。

時間遡行軍は義輝の死の運命を変えたい鵺の思いを利用、鵺は時間遡行軍と共に、様々な戦場に出没するようになります。

次第に戦闘能力を上げていくものの、その言葉遣いはたどたどしいままで、他の刀剣男士のような「心」が生まれません。

自分は何者か分からないことに苦しみながらも鵺は経験を積み、ついに生前の義輝と接触することに成功、行動を共にするようになります。

足利義輝の人生最期の日となる、永禄の変の前夜。

鵺に転機がやってきます。

混沌の中にあった「鵺」は義輝が名を与えたことにより「時鳥」となる

足利義輝は本丸を離れ永禄の地にやってきた三日月宗近に、自分の死の定めを変えてほしいと懇願。

しかし三日月は協力の姿勢を見せませんでした。

鵺はその後、義輝と二人きりになり胸の内を打ち明けます。

鵺と呼ばれる「……あの……」

義輝「どうした?」

鵺と呼ばれる「……みかづきいらない……

ほねばみも、だいはんにゃも

いらない

……よしてるさま……ぼくが、まもる……」

義輝「儂のために戦うてくれるか?」

鵺と呼ばれる「ぼく……たたかう……よしてるさましなせない」

鵺がたどたどしい言葉で、精一杯伝えた思い。

義輝は鵺の思いをしっかり受け止めたあと、ふと名前を聞いていなかったことを思い出します。

義輝「そういえば、お前の名を聞いておらんかった。

名をなんと申す?」

鵺と呼ばれる「……なまえない……

たくさんのかたなでできたから…

……ぼくはぐちゃぐちゃだ

苦しむ鵺の姿を見た義輝は、その苦悩を何とかしたいと思ったのか、あることを提案しました。

義輝「名もなき刀か…

ならば儂がお前に名を与えてやろう

鵺と呼ばれる「なまえ?」

義輝「刀の名前か……

いざ名付けるとなると、難しいものじゃな……

……ホトトギス……

この国の言葉は不思議なものでな、

ホトトギスにはいくつもの書き方がある。

時の鳥と書いて、時鳥

「ぼくはだれ」という問いに苦しみ続けていた鵺が変わるきっかけになったのが、この義輝の言葉です。

「そうじゃ……お前は時鳥じゃ

時を越えて、儂を連れて行ってくれ

この永禄を越えた、まだ見ぬ歴史の先にじゃ……」

「ぼくはだれ おしえて」時鳥の苦しみは私たち人間の姿

時鳥「俺は……この身命を賭してあなたをお守りする」

義輝「お前、言葉が……」

足利義輝から名前を授かった「時鳥」は、他の刀剣男士たちのように人の言葉を操り、義輝の運命を変える戦士として歩みだします。

「いくつもの刀から成る俺には、多くの物語が内在していた。

その物語はぶつかり合い、互いを食い合っていた。

ゆえに俺の心は混沌の中にあったんだ。

だけど公方様、

あなたが名を与えてくれたおかげで、俺は俺という刀になった。

だから、俺はあなたのために戦う。

俺はあなたの刀であり、

これは俺という刀の物語だからだ!

義輝が最期に抱いた無念が形となり、狂った時間軸の中で生まれるはずのない存在として誕生した「鵺と呼ばれる」。

「ぼくはだれ」なのかを定義することができず、心が混沌の中にあった「鵺と呼ばれる」は、明日やってくる義輝の死の運命を超える戦士の名「時鳥」を授けられたことで、自我を持てるようになります。

そしてやってきた永禄の変。

「時鳥」は皮肉にも「泣かぬなら殺してしまえホトトギス」と表現される織田信長の刀剣男士たちに討たれ、散っていくことになります。

その儚い最期は、何回見ても涙無しには見られません。

ぼくはだれ おしえて」と叫び、のたうち回って苦しんでいた鵺。

その姿は私たちにあることを教えてくれます。

私たちも実は、自分のことは分かっているようで分からないものです。

「ぼくはだれ」と自分に問いかけてみると、即答できないものではないでしょうか。

汝自身を知れ」という格言でも知られるように、古代ギリシアの時代から「ぼくはだれ」という問いは人類が向き合ってきた哲学的命題です。

現代でも「自己分析」「自己知」といった言葉がビジネス、心理学などで取り上げられています。

私たちが何気なく使っているTwitterでも、自分の深層心理を探る心理テストがよく拡散されていますね。

本当の自分を知りたい」という思いは、哲学者や思想家でなくても多くの人が持っている心なのではないでしょうか。

古今東西を問わず、人間たちが向き合ってきたテーマといえるでしょう。

鵺は時鳥という名を与えられたあと、名も無く自分が存在する意味も分からなかったときの自身を

俺の心は混沌の中にあったんだ

と表現します。

私たちも同じことで、自分の本当の姿が分からなければ、本当に自分が望んでいることも分かりません。

自分が望んでいることとは、言い換えれば「幸せ」といえるでしょう。

幸せになるために必要なことが「ぼくはだれ」という問いの答えなのです。

「ぼくはだれ」と問いかけることは、幸せになる第一歩

私たちは鵺と違い、生まれたときに親から名前を授かっています。

しかし名前があったとしても、人間は自分の本当の姿が分からない存在だと仏教では教えられています。

鏡を使わなければ自分の顔を直接目で見ることができないように、自身の姿は近すぎて分からないのです。

自分は一体何者なのか分からない苦しみを鵺は「混沌の中にある」と表現しました。

私たちの心も、実は混沌の中にあるといえるでしょう。

『悲伝 結いの目の不如帰』では日本刀の父ともいえる刀剣男士・小烏丸が登場します。

「我が名は小烏丸。外敵と戦う事が我が運命。

千年たっても、それは変わらぬ」

顕現するときに小烏丸自身もこう言っているように、1000年以上前に打たれ、移ろいゆく歴史の中で人間たちの姿を見てきたのが小烏丸です。

『悲伝』のクライマックスで、臨終の足利義輝は小烏丸にこう問います。

義輝「……刀剣男士よ……お前たち刀とはなんだ?」

小烏丸「刀とは、か……

難しい問いであるな。

生きることそのものが

人間という存在を解き明かす問いかけであるように、

我ら刀剣も、この世に在り続けることが問いかけなのだ。

答えなど、千年在ろうとも未だ見つからぬがな

だが、いずれは歴史の果てで、その問いの答えにたどり着きたいものよ」

1000年この世にあった小烏丸も分からず、いつか答えにたどり着きたいと願っている「ぼくはだれ おしえて」という問いかけ。

古今東西の人間が答えを求め続けてきたこの問いは、2600年前に生まれた釈迦も向き合い、厳しい修行の末その答えにたどり着いたと、今日に伝えられています。

お釈迦様は私たちの本当の姿を「実機」と言われ、生涯かけて説かれていきました。

自分の本当の姿が分からなければ、どんなに財や名声を得ても、友達や家族に恵まれても、心から幸せになることはできないと仏教では教えられています。

「ぼくはだれ」と自身に問いかけることは、幸せになるための第一歩なのです。

自分は何者か知りたいと苦しんでいた「鵺と呼ばれる」は「自分」を知ることの大切さを、私たちに教えてくれているのかもしれません。

★このコラムの続編をアップしました★

【刀ステ感想・ネタバレ注意】悲伝「鵺と呼ばれる」の刀剣破壊セリフ「僕たちはどこに向かっているんだろう」の意味を考察する

※「悲伝 結いの目の不如帰」のセリフ紹介はこちらから引用させて頂きました。 (より深く刀ステの感動を味わえるので、とてもオススメです!)

末満健一(2020)「戯曲 舞台『刀剣乱舞』悲伝 結いの目の不如帰」ニトロプラス