女は愛されて幸せになるのか。
2期に渡りアニメ化している『昭和元禄落語心中』は昭和時代の話でありながら、私たち現代を生きる女性が幸せになるためのヒントが隠されています。
今回は物語前半部分のヒロイン・みよ吉から、女子の幸せとは何かを考察します。
男尊女卑?八雲の台詞の端々に見え隠れする「女」への否定的価値観
主人公の与太郎は満期で出所後、服役中見た八代目八雲の落語が忘れられず、八雲に弟子入りを志願します。
八雲の家に住み込むようになった与太郎は、八雲の養女である小夏という女性から落語の稽古をつけてもらうようになりました。
小夏は亡き父親・助六の落語に憧れており、助六から受け継いでいると思われる才能がありましたが、八雲との間には何やら穏やかでない空気が漂っています。
あるとき八雲は小夏を呼び出し、助六の死について嗅ぎ回っていることを指摘、小夏にこう言います。
「アタシを殺そうがなにしようが自由さ
ただね、お前さんが噺家になって
アタシの鼻あかそうてぇ魂胆なら
全身全霊かけて阻止するよ
女は噺家にゃ向かない
こればっかりはどうにもならねぇ
乗り越えなきゃなんねぇものが多すぎるんだ
女は恋をすると狂うしね」
八雲は男尊女卑なのかと思ってしまうほど、女性に対して散々な言い方。
ただ現実にも女性の噺家は少なく、日本初の女性噺家の露の都さんも、初め弟子入りを断られたと語っています。
しかし筆者が『昭和元禄落語心中』を読んで落語に興味が沸き、初めて天満天神繁昌亭に行ったときに露の都さんがトリを務めておられ、客席の反響は一番の盛り上がり。筆者もすっかりファンになりました。
プロの方からみるとまた違うのかもしれませんが、女性の噺家も男性に劣らぬ魅力はあるのではないでしょうか。
そして八雲の場合、女性噺家を客観的にみているよりは、人生を大きく変えたある女性の影響が大きいようです。
その女性はみよ吉。
小夏の母親です。
八雲の女性観をここまで否定的にした、みよ吉とはどんな女性だったのでしょう。
はじまりは妖艶な芸者との初々しい恋だった
花柳界に生まれながら足に怪我をして踊れなくなってしまった幼い頃の八雲は、七代目八雲の家に養子に出されます。
菊比古という前座名をもらい寄席に出るようになりますが、落語の腕は伸び悩んでいました。
ある日師匠である七代目八雲は、生真面目な性格ゆえ落語に隙がなく親しみやすさに欠ける菊比古に、愛人の芸者・みよ吉を紹介します。
そして菊比古の大人っぽさや中性的な美しさにみよ吉は惹かれていきました。
菊比古もみよ吉に惹かれてはいましたが、つれない態度が目立ちます。
しかしみよ吉はめげることもなく寄席へ足を運んでいました。
そんなみよ吉に、菊比古の兄弟子・助六が声をかけたところ、みよ吉は胸の内を打ち明けます。
「落語は嫌いかい?」
「ええ映画見てた方がマシだわ、あんなの年寄りのものでしょ。
喋ってる菊さんがキレーだから見にいくの」
「男にゃわからん」
「恋ってそういうもんよー
あたし、菊さんの為なら何だって我慢するわ
ないがしろは慣れてンの、男の人ってそういうもんだし
大事なことは何も教えてくんないのよ
アタシさ、満州に行ったのも男に騙されたようなもんなの
騙されて、捨てられて、色も売って生き延びてきたわ
戦争で身寄りもなくなって天涯孤独
どん底だったわよ
そんな時にあんなトコでさぁ
八雲センセ(七代目)に出会ったのがあたしの第二の人生の始まり
ひとりは二度とイヤ
お金も何もいらないの、女として心から好きな人をずっとそばで支えたいの」
その人の為だったら何だって我慢できるような運命の人と、幸せになる。
そんな「愛されて幸せになる」生き方に憧れる方も多いでしょう。
しかしその実態は、愛してくれていたはずの男に騙されて振り回され、苦しみ続けてきた人生でした。
そしてみよ吉が運命の人と信じていた菊比古も、実はみよ吉と別れようと決めていました。
その理由は養父でもある師匠に、芸者のみよ吉とは家庭を持つべき相手ではないと言われたから。
師匠に逆らえば最悪破門される。落語とみよ吉をどちらかを選ぶことを迫られた菊比古は、落語を選んだのでした。
みよ吉の言葉に見え隠れする、不幸な女の生き方
別れを決心した菊比古はみよ吉に会いに行きます。
「いくらでも責めとくれ、今日はひと晩それを聞きに来た」
「このお店ね、赤線廃止でなくなるんだって、料亭になるみたい
お女将さん言ってたよ、アタシなんかもう年だから辞めさせられるの、どうしよう」
「小唄をやりゃあいい、寄席に出たいって言ってたろ」
「嫌よめんどくさい、田舎にでも戻ろうかしら
身寄りなんてないけどここにいるよりしがらみが無いわ
色んなジジイのおめかけでもやって暮らそうかしら」
「またそうやって人を試すような事を…」
「菊さんお願い、一緒に逃げて、ね?」
自分と添い遂げることを選び、一緒に落語の世界から逃げて欲しいと訴えるみよ吉。
実は出会った頃、「小唄を習ってたからいつか寄席にも出てみたい」とみよ吉は言っていました。
しかし先に助六に漏らしていたように、菊比古が好きだから寄席に関心があるフリをしていただけだったことが露呈してきます。
好きな男に合わせて自分を偽り、男に依存して生きていく。
「女として心から好きな人をずっとそばで支えたい」
という言葉はとても美しいですが、当のみよ吉は幸せとは程遠い心でした。
菊比古はみよ吉の人生観を変えようと必死に説得しますが、全く噛み合いません。
「お前さんは一人でも生きられるしなやかさを身につけないと
依存してばかりじゃ相手がいなくなった時ダメになっちまう
これからはそういう時代が来る
男も女も自分のために生きる時代だ」
「何よ偉そうに人の生き方よ、あたしの本名すら知らないくせに
絶対に復讐するわ、死んで化けて出ましょうか?
今度会う時は地獄ね」
その後みよ吉は務めていた廓のお金を持って助六と共に田舎に逃げ、助六との子供・小夏を産みます。
しかし助六は働きもせず生活はドン底に。
菊比古に残した言葉通り、この世の地獄に陥っていきました。
菊比古は二人を更生させようしますが、最終的にみよ吉は助六を包丁で刺します。
血だらけで苦しむ助六を菊比古が助けようとしたところ、みよ吉の娘・小夏がタイミング悪くその現場を目撃。
小夏は助六をみよ吉が殺したと思い込み、みよ吉を突き飛ばしたところ、寄りかかった旅館の欄干が崩れ、みよ吉は階下へ転落。
助けようとした助六と共に川で転落死します。
最後の最後、みよ吉と地獄への道を共にしようとしたのは助六だったのです。
菊比古が言った「男も女も自分のために生きる時代」の本当の意味
みよ吉は最期まで助六の本当の愛に気づくことなく、菊比古に愛される幸せを求め続けました。
そんなみよ吉に変わってほしいと菊比古が訴えかけた言葉の中に
「依存してばかりじゃ相手がいなくなった時ダメになっちまう
これからはそういう時代が来る
男も女も自分のために生きる時代だ」
という言葉がありました。
好きな男ができれば身も心も運命共同体として生きるみよ吉の生き方は、相手の男が裏切ったとき自分の幸せも崩れてしまいます。
「男も女も自分のために生きる」とは自己中心的な生き方をしろという意味ではなく、「自業自得」の人生を送ってほしいという意図でした。
「自業自得」という言葉は元々は仏教の言葉で、本来は良いことも悪いことも、自分がやった行いの報いは全て自分が受ける、という意味です。
自分の人生は自分で選択し、その結果は自分で責任を持つ。
結婚してもしなくても、周囲の人に依存する人生ではなく、自業自得を意識し、自分の幸せは自分で選び取ることが本当の意味で女性を幸せにする。
それが当たり前になる時代が昭和の次にやってくると菊比古は見抜いていたのでした。
菊比古の言葉通り、現代は女性も能力を磨き社会に出て輝ける時代です。
しかしそんな時代に生きながら、夫のせいで不幸だ、会社のせいで苦しいんだというような考え方をしている方は意外に多いのではないでしょうか。
私自身も仕事やプライベートで辛いと感じるとき、ふと気づくと周りのせいにしている自分があります。
本当の意味で「自分のため」に生きる女性こそ幸せで、美しい。
菊比古はそういうことをみよ吉に訴えようとしたのだと思いますが、聞き入れてもらえませんでした。そして女性自体が男に依存せずにいられない生き物だと思うようになってしまったのかもしれません。
小夏に八雲(菊比古)が言った「女は恋をすると狂うしね」という言葉にはそんな思いが現れているように思われます。
日本人の思想に古くから根付く仏教思想の一つである、自業自得の生き方。
日本で生まれた伝統芸能である落語の噺の中にも自業自得が知らされる筋書きは多くあります。
後に名人噺家となる菊比古は、この頃から、女性が幸せに生きるために必要な人生観を落語から学んでいたのかもしれません。