良いか、ここにある世界は、生きたいと願う心じゃ。
幸せを願う祈りじゃ。
苦しい者を救いたいと思う慈悲じゃ。
わしら『人間』がそういった心をなんと呼ぶか知っておるか?
それを人は……愛と呼ぶ。
その心を滅ぼすというのか
刀剣男士よ
昨日、大千秋楽公演がライブ配信された、科白劇 舞台『刀剣乱舞/灯』綺伝 いくさ世の徒花 改変 いくさ世の徒花の記憶(‘綺伝 いくさ世の徒花‘に取消し線が入ります。) 。
「舞台『刀剣乱舞』」通称「刀ステ」ファン待望の新作「舞台『刀剣乱舞』綺伝 いくさ世の徒花」は、新型コロナウイルス感染症の影響で一度中止になりました。
中止された本公演に代わり、新形態での演劇として上演された作品が、科白劇 舞台『刀剣乱舞/灯』綺伝 いくさ世の徒花 改変 いくさ世の徒花の記憶(‘綺伝 いくさ世の徒花‘に取消し線入る。以下「科白劇 綺伝」と省略して表記させて頂きます。)です。
本公演「舞台『刀剣乱舞』綺伝 いくさ世の徒花」が中止になり、科白劇として上演された「科白劇 綺伝」は、別の本丸の物語が語られる構成になっていました。
軍議部屋で刀剣男士たちが「ある所から主が入手した、別の本丸の戦績資料」を話題にするところから物語は始まります。
本公演の舞台となるはずだった、「特命調査 慶長熊本」の任務。
戦績資料に書かれた「特命調査 慶長熊本」の経過が、刀ステ本丸と非常によく似ていたので、客観的に自分たちの特命調査を分析するための助けになるかもしれないという理由で、第3部隊の隊長・歌仙兼定が「戦績資料」を読み開くという形で物語が進みます。
本作では特殊な刀装として「講談師」(講談師:神田山緑さん)が登場し、科白劇ゆえに分かりにくい戦闘シーンや舞台の状態を匠の技で表現されています。
今回の内容のうち、どのくらいが「舞台『刀剣乱舞』綺伝 いくさ世の徒花」の物語なのかはわかりませんが、今までの通常公演と遜色ないどころか、新たな挑戦を見せてくれた作品が「科白劇 綺伝」でした。
筆者は元々、品川プリンスホテル ステラボール公演にファンサイト先行で当選していたのですが、居住する地域の新型コロナウイルス感染者数が増えた時期と重なり、血の涙を流すくらいの悔しさを抱えながら泣く泣く遠征を断念、ライブ配信で昨日はじめて鑑賞しました。
しかし、ライブ配信でも最大限楽しめるよう熟慮に熟慮を重ねられた「科白劇 綺伝」は、ただコロナ下で上演できる演劇というだけに留まっていませんでした。
ライブ配信でもストーリーを200%楽しめる演出の工夫、ソーシャルディスタンスを維持しながら長物を利用した迫力ある殺陣も現役で、まさに「マスクも見えなくなる」くらい「刀ステ」。
ストーリー上も今までの刀ステにない新要素がありました。
それは女性キャストを起用した「ラブストーリー」。
刀ステ初の女性キャストとして登場、既存の刀ステファンからも大きな支持を得た方が「ガラシャ様」と愛を込めて呼ばれている「細川ガラシャ」(七海ひろきさん)です。
筆者は周囲に宝塚歌劇団のファンの方が多く、七海ひろきさんの才能と魅力は観劇前から色々お聞きしていましたが、想像以上の「イケメン」さで完全に「ガラシャの女」の一人になってしまいました。
このコラムでは「科白劇 綺伝」の要でもある重要キャラクター「ガラシャ様」にスポットを当て、新たな挑戦を成功させた「刀ステ」の魅力を振り返ってみたいと思います。
※「刀ステ」って何?という方はこちらのコラムでご紹介させて頂いています。
【あらすじ※ネタバレ注意】刀ステが挑む新たな展開はシリーズ初の「ラブストーリー」
※本コラムでご紹介している「科白劇 綺伝」の内容は筆者が大千秋楽ライブビューイング・ディレイ配信で視聴させて頂いた内容をご紹介していますので、筆者の記憶違い等がある可能性があります。戯曲が発刊されたら修正予定です。
「刀ステ」といえば、「イケメン刀剣男士の物語」作品というイメージが強いと思います。
筆者は以前、男性の友人と「慈伝 日日の葉よ散るらむ」を観劇したことがありますが、友人に「イケメンしか出てこないから男性は劇場に来づらかったけど、こんな最高な作品だったなんて知らなかった。女性向けというイメージがあるのが勿体ない」と言われたことがあります。
今回はまさかのシリーズ初の女性キャストが登場した上、今まで全く無かった「ラブストーリー」要素が出てきます。
しかしただのラブストーリーで終わらないのが、刀ステ。
人間が抱く「愛」の本質を、歴史上の人間が紡いできた「物語」から成る「刀剣男士」を写し鏡にして、深堀りしていく展開になっています。
「あれは……ようやく着いたか……
『神の国』へ
あそこに……あの女が……!!」
「戦績資料に書かれた特命調査」の冒頭に登場するのは、ボロボロの姿をした謎の男。
浮浪者のような身なりをしたその男はなんと、「義伝 暁の独眼竜」で伊達政宗との熱い絆を披露してくれた細川忠興でした。
筆者のような義伝ファンは感激するしかない、なんと俳優さんも義伝と同じ、早乙女じょうじさん。
あまりの変貌に筆者は最初誰か分かりませんでしたが、声で分かりました(笑)
歴史改変された世界で、忠興はなんとお家取り潰しで無職に。
この慶長熊本の世界の中心には細川忠興の妻・細川ガラシャがいました。
原作ゲーム「刀剣乱舞-ONLINE-」と同じく、政府から派遣された刀剣男士・地蔵行平が衝動的にガラシャを攫ってしまい、行動をともにしていました。
前作「維伝 朧の志士たち」では「放棄された世界」を生み出した人物は終盤まで明らかになりませんが、今作では細川ガラシャが歴史改変の中心にいることが序盤で明らかになります。
「地蔵行平、私はこの神の国を見届けねばならないのです。
これは私から始まったことですから
父が……光秀が本能寺で織田信長公を自刃に追い込み、その敵を打たんとした豊臣によって明智家は滅ぼされました。
あの日、私は一夜にして無明の闇に落とされたのです。
謀反人の娘として細川家を追われ、味土野に幽閉されていた頃、彼らがやってきたのです。
彼らは私に未来を見せました。
……私の死する未来
あなたも知っているのでしょう?」
地蔵をまるで弟のように思い、自身を姉上と呼ばせて行動をともにしていたガラシャは、自分が「神の国」を生み出したと早々に明かします。
時間遡行軍により自分に訪れる非業の死を知ったガラシャは、夫と懇意であった高山右近に相談。
高山右近らの働きにより多くのキリシタン大名が蜂起、慶長熊本は「神の国」と呼ばれるようになります。
※「刀ステ」における「放棄された世界」についてはこちらのコラムで考察しています。
「神の国」政権の実質的な要は、摂政である、大友宗麟と軍師の黒田孝高。
なんと、黒田孝高も「ジョ伝 三つら星刀語り」で黒田孝高(黒田官兵衛)を演じられた山浦 徹さんが再びクロカン(黒田官兵衛)として登場されています。
筆者は「ジョ伝 三つら星刀語り」を見てクロカンのファンになり書籍を読み漁ったくらい山浦 徹さんのクロカンが大好きで、再び刀ステの舞台でお目にかかれたことが本当に幸せでした。
「神の国」の黒田孝高は
「官兵衛ではない。ここでは黒田孝高。
黒田官兵衛であり孝高であり如水でもある。だがここでは孝高じゃ」
と言い、秀吉の軍師「官兵衛」としての己を消しているように思われます。
(講談師さんの発言から想像するに、本来の「綺伝」は物語の主軸が細川ガラシャ・細川忠興と黒田孝高の2軸だったのかもしれません。)
山姥切長義と亀甲貞宗は、大村純忠・有馬晴信に発見されたのを機会とし、大友宗麟・黒田孝高と接触、歴史改変の目的を聞き出そうとします。
山姥切長義「おまえたちの目的はなんだ?」
大友宗麟「わしらはただ、生きたいだけじゃ……
ガラシャ様にもたらされた神の啓示、わしらも彼女と同じく、時を超えし者たちによって未来を見た!
わしらは知ってしまったんじゃ、自らの生きざまを!その最期を!
これは神がお与えになった試練だと、わしらは解釈した」
もし自分が「己の生きざまと最期を聞いてしまったら」と考えると、思わず感情移入してしまうこの言葉。
しかし山姥切長義たちは場を去ったあと、この「歴史改変の目的」と「神の国」の有様が一致しないことに疑問を抱いていました。
歴史の流れ上、キリシタンの「神の国」を生み出すのには不自然な時代と場所。
その理由は細川ガラシャが「神の国」の中心にいたからでした。
細川忠興・細川ガラシャ、城下にて運命の出会いを果たす。その時、明らかになった細川忠興の本心
この時間軸でガラシャが「神の国」を生み出したことにより、すべてを失った忠興はガラシャを殺そうと街中を狂い回ります。
細川忠興「あの女が、俺を裏切ったからじゃ!
あの女が、こんなキリシタンの国など作ったおかげで、俺は太閤殿下の怒りをかった!
そのせいで細川はお家取り潰しだ!
謀反人の娘は、謀反人だったという訳だ!
蛇のような女め!」
小西行長「違う!玉様は裏切った訳ではない!」
細川忠興「お前にあの女の何が分かる!
さては、玉とできておるのか?そうか、そういうことか」
小西行長「違う!キリシタンにとって、結婚は生涯のもの!玉様は今もあなたの妻です!」
細川忠興「あの女が俺の妻だと?
右近、それは違うぞ。
玉はもう俺の妻ではない。
あの女の夫は……信仰だ。」
忠興を必死に説得しようとする小西行長とのやり取りの中で、忠興は本心を露わにしていきます。
「もう遅い……俺の中に残っているのは、あの女への憎しみだけじゃ。
あの女を殺すしかないんじゃ!」
放棄された世界に現れた細川忠興は歴史上の当人ではなく、細川忠興が強く抱いた感情のみで動く幽鬼のような存在と化していました。
一方、放棄された世界の核になっているガラシャも地蔵行平に、思いを吐露します。
ガラシャ「かつて私を蛇と呼んだ人がいました。
どうです?蛇のような女でしょう」
行平「いや、蛇などではない。姉上は……花だ」
ガラシャ「花?」
行平「ああ、花だ」
ガラシャ「刀剣男士は、歴史に基づく物語から成ると聞きました。
あなたのその心はどこから来たのでしょうか」
行平「我の物語には細川忠興、明智光秀、…そして姉上が、細川ガラシャがいる。きっとこの心は、その物語から来た
だから忠興の心も、ここに……」
ガラシャ「あの人の心……正史では私は歴史が定めたままに死ぬ
もしかしたら私は、この改変された世界で生き長らえ、確かめたかったのかもしれません。
……でも、そんなことのために皆を巻き込んでしまったのなら、やはり私は蛇です。
行平、私は……私が蛇なのか花なのか、確かめなくてはなりません」
ガラシャがこの世界を生み出したのは、自分を凄惨な死に至らしめた夫の真意を確かめたかったからだったのでしょうか。
「神の国」の中心であるガラシャ自身も思い出せなかった、この放棄された世界が生まれた理由は、細川忠興と再会したとき明らかになります。
「見つけたぞ、ようやく見つけた……
俺は……俺は……
お前が憎い……憎くて憎くてたまらん……!
どうしてこんなに憎い……
玉よ
俺は、お前が愛おしくて愛おしくて堪らんからじゃ!
愛おしいから憎い……憎いから愛おしい……」
愛おしいから憎い。憎いから愛おしい。
忠興の心は深い迷いと苦しみに満ちていました。
そしてその心は、なんとガラシャも同じだったのです。
「忠興さま、私を憎いとお想いならその手で殺せば良い!
他の誰でもない貴方のその手で!
だって……私も貴方が憎いのです……
憎くて、憎くて……愛おしくて、愛おしくて……
憎くて、愛おしい人。
貴方に斬られるなら本望です」
振り上げた刀を振り下ろせないまま、忠興は高山右近に斬られて絶命。
その時、ガラシャが「神の国」を生み出した、本当の理由が明らかになります。
「神姿」になった”ガラシャ様”。放棄された世界・神の国を生み出した、本当の理由が明らかに
※前作「維伝 朧の志士たち」のストーリーの核心部分に関するネタバレがあります。ご注意ください。
「あなた(忠興)の心を確かめたかった、そうじゃない……
そうじゃない……
私はただ許されたかった……
私の罪を!!
誰かに赦してほしかった!!
私が背負った罪は、愛する人を憎んだこと。
それが私の赦されぬ罪。
どんな神とて、この罪を洗うことはできない……
私を赦せるのは、私を蛇と呼んだ、あの男だけだった…!」
「維伝 朧の志士たち」の坂本龍馬と同じく、放棄された世界を生み出した本当の理由を思い出した細川ガラシャは、姿が大きく変わります。
Twitter上で「神姿」と言われるその姿は、宝塚歌劇で活躍されていた七海ひろきさんだからこそ着こなせる、雄々しくて美しい姿。
ガラシャが「神の国」を生み出した本当の理由は、愛する人を憎んだ「罪」を赦す存在が欲しかったからだったのです。
「どんな神とて、この罪を洗うことはできなかった」とガラシャが言う罪深い心。
それは仏教哲学で説かれる「愛」の本質と言い換えることもできます。
仏教では愛することと憎むことは「一如」だと教えられます。
一如(いちにょ)とは、絶対的に同一である真実の姿、という意味の仏教用語である。
愛憎は一如、誰かを激しく愛する心と、殺したいほど憎む心は本質的には同質で、紙一重なのです。
現代社会でも、片想いと分かっていてストーカー行為に及ぶ人、溺愛している子供が言うことを聞かないからといって虐待する親は悲しいことにあとを絶たず、愛憎が紙一重なのは全人類の変わらない姿といえるでしょう。
愛し、愛されたいという心「愛欲」は自分だけが幸せになりたいという自己中心的な性質を持ちます。
「科白劇 綺伝」では細川忠興が所持していた刀剣・歌仙兼定が自身を形作った物語を語る形で、忠興のガラシャへの異常な執着ともいえる「愛憎一如」の逸話が紹介されています。
ある日、玉に見惚れた庭師に激昂した忠興がその庭師を斬り殺したのだ。
忠興「今、この男と目と目を合わせたな!」
ガラシャ「いいえ!私はただ庭に咲く花を眺めていただけ」
忠興「黙れ!俺以外の男を見ることは許さん!
誰であろうとお前に触れることは許さん……
もしお前に近づくような者がいれば……」
そう言うと忠興は横たわる庭師の亡骸を串刺しにした。
何度も、何度も……
忠興「お前は……俺だけのものじゃ」
忠興は血に濡れた刀を、玉の着物で拭う……
忠興「斯様な様を見て、眉一つ潜めぬとは……お前は蛇のような女じゃ」
ガラシャ「鬼の妻には、蛇のような女がお似合いでしょう」
忠興がガラシャのことを「蛇」と言った逸話としても知られるこの事件。
「俺だけのもの」という言葉の通り、妻が他の男と目線を交わすことすら許せない……
忠興が囚われた「愛」は、まさに「俺だけが妻の愛を独り占めしたい」という自己中心的な「愛欲」の本質そのものです。
そして忠興だけでなく、花のように美しく、慈悲深い女性と言われたガラシャも、自分だけが愛されたい「愛欲」に苦しんでいました。
「味土野の幽閉が解かれたあと私は細川家に戻されました。
ですがあの人は他に何人もの側室を迎えていた……私へのあてつけでしょう!
……自分に従属せず、キリシタンとなった私への
どうしてあの人は私の死を命じたのでしょう……
本当に守ろうとするなら逃せば良かったのに
私の死は、きっとあの人が望んだもの。
ならば……自分のその手で切ればいいのに!」
物語の序盤、ガラシャは地蔵行平にこのような思いを吐露しています。
美しすぎる妻を娶ったことで狂っていった忠興だけでなく、ガラシャもまた自分だけが夫に愛されたいという想いに生涯苦しんでいました。
自分だけが愛されたいという心が満たされないとき、「愛欲」は「嫉妬」に変わります。
仏教では妬み嫉みの嫉妬心を「蛇」のような心と表現します。
ガラシャは美しく聡明な高嶺の花でありながら、人間誰にでもある嫉妬という蛇の心を持つ一人の「人間」だったのではないでしょうか。
聡明なガラシャは、「蛇」のような愛欲と嫉妬の心を抱くこと自体が「罪」であると悔やみます。
時間遡行軍によって己の凄惨な最期を知らされた時、彼女の心に吹き出した「自分だけが忠興に愛されたかった」という愛欲と嫉妬はどれほど強かったことでしょう。
その罪を赦してくれる存在を渇望する心は「神の国・慶長熊本」を生み出すほどの力を持っていたのでした。
愛されたいという心や妬みの心は仏教では「三毒の煩悩」と言われ、人間は煩悩によって罪を作り、罪の報いという毒で自ら苦しんでいくと説かれます。
仏教を説かれたお釈迦様は、愛されたい欲の心や妬みの心でいっぱいの自分をまっすぐ見つめることは、幸せに生きるために必要な第一歩だと教えられています。
美しく切ないだけでは語れない、「愛」の本当のすがたを知り、深く見つめていくことは、欲や嫉妬で苦しむ生を送っている私たちが幸福になるために必要なことなのです。
単なる悲しいラブストーリーではなく、「愛」の本質にまで切り込む「刀ステ」はまさに挑戦し続ける作品。
いつか上演される本公演「綺伝 いくさ世の徒花」ではどんな展開が待っているのか、楽しみにしながらこのコラムを終わりたいと思います。
※アイキャッチ画像はこちらより引用
科白劇 舞台『刀剣乱舞/ 灯』綺伝 いくさ世の徒花 改変 いくさ世の徒花の記憶 ※正式タイトルは”綺伝 いくさ世の徒花”に取り消し線が入ります