【刀ステ感想・ネタバレ注意】「悲伝 結いの目の不如帰」で円環する三日月宗近の本心を考察する

【2019/03/18投稿 ※2020/05/04 「戯曲「舞台『刀剣乱舞』悲伝 結いの目の不如帰」の内容をもとに修正しました】

舞台『刀剣乱舞』悲伝 結いの目の不如帰」は2018年夏に上演された「刀ステ」シリーズの人気作。

Blu-ray・DVDはオリコン週間DVDランキング、Blu-rayランキングでともに初登場1位となり「刀ステ」シリーズの中でも特に大きな注目を集めました。

特集番組「密着ドキュメンタリー 舞台『刀剣乱舞』悲伝 結いの目の不如帰 ディレクターズカット篇」もファンからの強い要望を受け、Blu-ray・DVDがリリースされています。

筆者は2018年6月16日に京都劇場にて「刀ステ」初鑑賞で『悲伝 結いの目の不如帰』を観劇。

刀剣男士たちが現実世界に現れたような演技と殺陣の美しさに圧倒され、観劇レポを兼ねた考察コラムを投稿させて頂きました。

【刀ステ悲伝・感想】三日月宗近から「悲伝」の本当の意味を考察する(大千秋楽公演ネタバレ有り)

今後の刀ステ新作公演を楽しみにしながら繰り返しBlu-rayを鑑賞する日々です。

今回は円盤を周回する中で改めて感じた『悲伝 結いの目の不如帰』の物語の深さをご紹介。

悲伝』で鍵を握る存在、三日月宗近セリフに込められた意味を考えたいと思います。

密着ドキュメンタリー 舞台『刀剣乱舞』悲伝 結いの目の不如帰 ディレクターズカット篇 [Blu-ray]

【ネタバレ注意・あらすじ】「刀ステ」の集大成『悲伝 結いの目の不如帰』 明らかになる三日月宗近の真実

時は西暦2205年。

歴史修正主義者と名乗る時間犯罪者達が結成した時間遡行軍により歴史は改変の危機に晒されます。

対峙する時の政府は「審神者(さにわ)」と呼ばれる者によって時間遡行軍に対抗。

審神者の持つ力によって刀剣より励起された刀剣男士が刀ステの主役です。

山姥切国広が最初に顕現した、ある本丸が刀ステの舞台。

刀ステシリーズでは主人公ポジションである山姥切国広と、影の主役・三日月宗近を中心に刀剣男士たちの物語が描かれてきました。

数多の刀剣男士たちが顕現し、成熟した本丸で起こった激動の日々が『悲伝』では描かれます。

戦いの日々に終わりは見えぬーーー

時間遡行軍による歴史干渉は激化していく。

それに伴い、俺たちの出陣頻度は明らかに増えていった。

歴史を守るための戦いは激しさを増し、次第に疲弊していく刀剣男士たち。

そんな彼らの前に現れたのは「鵺と呼ばれる」でした。

※「鵺と呼ばれる」についてはこちらのコラムでご紹介、考察しています。

【刀ステ悲伝・考察】「鵺と呼ばれる」から知る「ぼくはだれ?」が分からない私たちの苦しみ

謎多き新たな敵「鵺と呼ばれる」と三日月宗近が邂逅したとき、物語は大きく動きます。

「だが、おぬしは歴史に存在するはずのない刀といえる……歴史の異物か」

これは面白い

鵺に関心を持った三日月は彼にとどめを刺すことなく見逃し、仲間の燭台切光忠がこの行動を目撃していたことにより本丸の物語は大きく動きます。

三日月が鵺を見逃したのは「円環」の中で初めて現れた存在だったからでした。

刀ステで描かれてきた本丸の物語は、幾度も繰り返される時間のループ「円環」の中にありました。

三日月は何らかの理由で時間軸を円環し続けており、からみあう時間の糸の「結いの目」となっていたことにより、本丸は襲撃されることに。

時間遡行軍とともに本丸を殲滅しに来た鵺は、再び三日月と対峙します。

「……みかづきむねちか……おまえは、よしてるさまのかたなだ……」

「……それなのに……どうしてよしてるさまをたすけようとしないんだ!?」

鵺にとどめを刺すのを止めた三日月宗近は、誰にも明かさなかった本心を語ります

「鵺と呼ばれる」の前で明かされた、円環を繰り返してきた三日月宗近の本心

「なぜ義輝を救わないのか?

……そもそも、歴史を改変することは成し得ることなのか?

俺たちだけではない。

この現世には数多の本丸と、そこに集う刀剣男士が存在する。

そして、歴史改変を目論む歴史修正主義者と戦いを続けてきた。

もう無限にも思える戦いが行われてきたのだ。

だが、

確たる歴史改変は未だ成されず。

だから俺は思った。

歴史とは、すべての結果の上で存在しているのではないか

それは逆説的に言えば、歴史を改変することなど不可能ではないのか?

もしそうであるなら、

俺たちの戦いも、おぬしたちの戦いも、

徒労ではないか

三日月はある目的を果たすため時間の円環を繰り返していました。

しかしどれだけ過去に戻って結果を変えようとしても、円環の結末は変わらなかったと三日月は語ります。

繰り返される円環の中で刀剣男士たちが敗北したこともあったでしょう。

それでも円環のたどる結末はいつも同じ

どれだけ本丸の時間を遡っても変わらない結果を変える一縷の望みを、円環に初めて現れた鵺に三日月は見出そうとします。

「義輝の刀よ。俺は賭けてみたいのだ。

この終わりなき戦いの中に、

なぜおぬしが現れたのか?

なにがおぬしを必要としたのか!?

もしおぬしが歴史に抗うことができれば、

俺が過ごした時間も無駄ではなかったのかもしれない

『悲伝』でも変えることのできなかった円環の結末となる場所で、山姥切国広に

「……俺たちにできることはなかったのか?」

と問われた三日月は

「おぬしたちに背負わせるわけにはいかん。」

と答えます。

三日月が円環を廻る理由は明らかになりませんでしたが、山姥切たちのために何かを背負い続ける姿はとても痛ましく、美しい姿でした。

大千秋楽公演では結末が変化。三日月宗近は円環から抜け出たのか?

円環の最後はいつも、波の音がする、いつの時代か、どこの土地かも分からない場所。

そこに現れるのは全身真っ白になった三日月宗近です。

刀剣男士としての力を失い、人の身を保つ限界が訪れている三日月は円環の最後で何度も山姥切と刀を交えていました。

円環の中で得た三日月の力は刀剣男士とはいえない強さで、いつも山姥切は敗北し、円環が繰り返されてきました。

しかし大千秋楽公演では結末が変化、山姥切が三日月に勝ちます。

そして別個体と思われる新たな三日月が顕現するところで物語の幕は降ります。

筆者が観劇した悲伝公演のラストで顕現した新たな三日月は、どこか暗い表情をしていて他の刀剣男士のように挿入歌を歌うこともありませんでした。

悲伝公演50回以上の「繰り返される物語」はすべて、刀ステ本丸結いの目となった三日月が繰り返した円環だったのでしょう。

しかし大千秋楽公演の最後に登場する新たな三日月は、晴れやかな笑顔で「結いの目」の三日月とは「別人」のような印象がしました。

三日月に勝った山姥切国広は

「そのときは……今よりも強くなった俺が相手になってやる」

と言っている以上、何らかの「円環」は続くはずなのに、別人と思われる三日月が最後に顕現しています。

もしかすると、違う三日月宗近という個体に「結いの目となった三日月宗近」の魂が宿ったのかもしれません。

個体としては別の三日月宗近であっても、魂は「円環している目的」を果たそうと、また円環を生み出していくのではないでしょうか。

円環する三日月が知ったのは「因果律」の普遍性

歌仙「どうして答えない?」

三日月「それを答えたところで、もう元には戻れんからな

円環を生み出し、主に背くような行動を取ったことについて仲間に理由を問われた三日月はこう答えています。

仲間たちに背負わせたくないという心から、一人である目的を果たすために円環を続ける三日月。

しかし「鵺と呼ばれる」の前で明らかになった本心は

歴史とは、すべての結果の上で存在しているのではないか

という三日月がひそかに抱いていた思いでした。

三日月の言葉からは、本丸の辿った歴史をいくら変えようとしても最終的に「結果」が変わらなかったことが分かります。

円環を繰り返した三日月が知らされたのは、一度起きてしまった結果である「歴史」は過去に遡っても変わらないということだったのではないでしょうか。

哲学に「因果律」という考え方があります。

〘哲〙 どのような事象もすべて何らかの原因の結果として生起するのであり、原因のない事象は存在しないという考え方。因果法則。

(大辞林 第三版の解説)

因果律(いんがりつ)とはーーーーコトバンク

歴史として語られる大きな出来事も、私たちの身の回りで起こる出来事も、すべては結果であり、結果には必ず何かの原因があるという意味です。

「すべての結果の上で存在しているのではないか」という三日月の言葉は、すでに起こった「結果」は歴史修正主義者はもちろん、どんな科学技術でも覆せないという意味なのかもしれません。

なぜ結果は変えられないのか

その理由は仏教哲学に詳しく説かれています。

仏教では私たちの行いを「業」(ごう)と言い、業は大変強い力を持っていると説かれています。

サンスクリット語で,本来の意味は行為であるが,仏教では特に身,口,意が行なった行為ならびにその行為が存続して果報をもたらす力という意味に用いられる。

業(ごう)とはーーーーコトバンク

業の持つ力は決して消すことはできず目には見えなくても必ず行為をした本人に結果をもたらすと仏教では説かれています

何度も何度も円環を繰り返す三日月の行為が結いの目を生み出したように、私たちの行為が力となって結果を生み出すのです。

業の力は消えることがなく結果を引き起こすので、私たち人間の魂も円環を巡る三日月のように輪廻を繰り返すと仏教では説かれています。

三日月「俺は……未来を繋げたいのだ」

山姥切「未来?」

三日月「そのために、気の遠くなる時間を円環の中で過ごしてきた。」

三日月がこう言うように気の遠くなるほどの回数、円環を繰り返しても、「業」が一度生み出した力は消えない以上、「現実」という今の結果は変えられない

しかし裏を返すとこれからの行為を変えていけば、「業」の力で未来はいくらでも変えられるのです。

私たちも「円環」できるのなら、過去をやり直したいと思うことが人生何度もあると思います。

しかし過去を悔み続け、一度起こったことを覆そうとする生き方は三日月の言葉を借りれば

徒労ではないか

といえるでしょう。

円環の中で苦しむ三日月の痛ましい姿は、私たちが生き方を見つめ直すヒントを教えてくれているのかもしれません。