【2019/09/21 更新しました】
「山姥切……楽しみにしているぞ」
刀ステの愛称で親しまれる、舞台『刀剣乱舞』。
今年冬に最新作の上演が決定、話題を集めている「刀ステ」の転換点ともいえる作品が、今年夏に上演された「舞台『刀剣乱舞』慈伝 日日の葉よ散るらむ」です。
鮮やかな殺陣や目が離せない展開が圧倒的支持を得てきた「刀ステ」は、今作・慈伝で新境地ともいえるほど更なる進化を遂げました。
前回記事では、シリーズを通しての主人公・山姥切国広とその仲間へし切長谷部の変化から「慈伝」の魅力をお伝えしました。
今回は「刀ステ」の三作目「舞台『刀剣乱舞』義伝 暁の独眼竜」から今作「慈伝」へ繋がる伏線をご紹介。
多くのファンが涙した衝撃のラストから、タイトル「慈伝」の深い意味を考察します。
※本文中の「慈伝」のストーリーは7月6日の大阪公演、7月12日の兵庫公演、アーカイブ配信で6月23日の東京公演を鑑賞させて頂いた筆者が内容をご紹介しています。
(セリフ紹介等に誤りがある可能性がありますが「戯曲」が発売されたら修正させて頂く予定です)
【ネタバレ注意・あらすじ】刀ステの新境地「慈伝 日日の葉よ散るらむ」に色濃く影を落とす「悲伝」の存在
「刀ステ」はDMMゲームズとニトロプラスによる刀剣育成シミュレーションゲーム『刀剣乱舞-ONLINE-』を原作とする演劇作品群です。
原作ファン、演劇ファン問わず大きな支持を得てきた「刀ステ」は昨年、シリーズ集大成となる「悲伝 結いの目の不如帰」が上演。
これまでの「刀ステ」シリーズの謎を明かしていく展開が話題を呼びました。
そんな「刀ステ」の新たな物語の始まりとも言える作品が「慈伝 日日の葉よ散るらむ」です。
多くのファンから「つらい」「悲しい」「泣ける」と言われた「悲伝」とは打って変わり、「慈伝」は抱腹絶倒のシーンが次々と押し寄せる観客の笑顔が耐えない物語でした。
しかしそんな「慈伝」には、刀ステシリーズのファンなら涙無しでは見られないクライマックスが待っています。
前作「悲伝」と一見正反対な作風に見えて、実は表と裏のような物語である「慈伝」。
明るくコミカルな作風の裏にある、深い物語を振り返りたいと思います。
「慈伝」は前作「悲伝」のあと〈新たな本丸〉に引っ越した刀剣男士たちのところへ〈新たな刀剣男士〉がやってくるところから始まります。
総勢19名もの刀剣男士たちによって紡がれる複数の物語が、最終的に一つに繋がる物語は、何回見ても楽しめる構成です。
〈新たな本丸〉で展開される物語は大きく分けると4つあります。
①〈新たな刀剣男士〉を主人公・山姥切国広に会わせることに不安を抱き、奔走する刀剣男士たち
②思い出の品々を抱え、荷運びに精を出す刀剣男士たち
③〈新たな刀剣男士〉の来訪を喜び、歓迎会を開催しようとする刀剣男士たち
④五虎退が落とした探しものを探す刀剣男士たち
前回は①の物語を中心に振り返り、山姥切国広とへし切長谷部の変化について注目しました。
【刀ステ慈伝・感想】「慈伝 日日の葉よ散るらむ」山姥切国広とへし切長谷部の変化から分かる、大切な人を失う悲しみ(ネタバレ注意)
今回は④の中で明らかになった、「刀ステ」シリーズ全体における重要な伏線をご紹介。
タイトル「慈伝 日日の葉よ散るらむ」の意味を考察したいと思います。
※「悲伝」「慈伝」のストーリーの根幹に関わるネタバレがあります。未鑑賞の方はご鑑賞後にお読みになることを強くおすすめします。
一見あたたかく明るい「慈伝」の物語で、徐々に明らかになっていく「悲伝」の痕跡
本丸にやってきた〈新たな刀剣男士〉は主人公・山姥切国広のコンプレックスの元凶ともいえる存在・山姥切長義でした。
へし切長谷部を筆頭に、付き合いの長い刀剣男士たちは山姥切国広のコンプレックスがぶり返すのではないかと懸念、山姥切国広と山姥切長義をいきなり会わせないため奮闘します。
必死に奔走する長谷部たちの動きがとてもシュールに表現されており、これまでの刀ステでは考えられないほど観客席は爆笑の渦でした。
しかし展開が進むにつれ「悲伝」の痕跡が色濃く現れてきます。
「以前の山姥切国広であれば、あんなトボけたことにはならなかったはずだ!
だがあれ以来、あいつはどこか上の空だ…」
長谷部たちの挙動不審な行動を見た山姥切国広は、突拍子もない勘違いをします。
その理由は「あのこと」があったからだと長谷部は指摘しました。
その後、仲間の中でも特に落ち着いた雰囲気の刀剣男士・鶯丸も、山姥切長義に声をかけ、山姥切国広の心中を伝えます。
鶯丸「三日月宗近」
山姥切長義「知っている…かつて、ここにあった刀
今はもう無い刀だ」
鶯丸「あれ、知ってたか」
山姥切長義「ああ、この本丸に何があったのかもな」
(中略)
鶯丸「山姥切国広は…
三日月を止められなかったことをずっと悔いているんだだから
強くあろうとしている」
前作「悲伝 結いの目の不如帰」では、山姥切国広にとって大きな存在だった刀剣男士・三日月宗近が「円環」の中にいたことが明らかになります。
本丸の時間軸を何度もループする「円環」を繰り返した三日月は、時の流れの「結いの目」となっていました。
時間遡行軍に「結いの目」となった三日月が感知され、本丸は奇襲されてしまいます。
三日月の存在によって生じた時空の裂け目に飲み込まれた山姥切国広は、円環を繰り返し変わり果てた姿になった三日月と対峙。
刃を交わし最終的には勝利しますが、三日月を円環から救うことはできず、本丸に三日月が帰ってくることはありませんでした。
今作「慈伝」パンフレットに掲載されている特別対談で、山姥切国広役を演じられた荒牧慶彦さんは「慈伝」の山姥切について
『悲伝』で三日月宗近との別れを経験し、今までの物語を背負っての今作の山姥切。
明るく振る舞っているけどどこか儚げでどこか影のある山姥切と、周りがどんどんそれに気を遣って振り回されていくっていう、日常の物語がこの『慈伝』です。
と語っておられますが、一見強くなった山姥切に「悲伝」での悲しみが残っていることが現れていきます。
どこか「悲伝」での影を引きずる山姥切国広と対象的に、明るく楽しそうに「五虎退が落としたもの」を探すのが、鶴丸国永や前田藤四郎を中心とする刀剣男士たちです。
物語の序盤から1人何かを探して悩んでいた五虎退。
五虎退は無くしたものをはっきり形容しないので、落とし物探しは困難を極めますが、鶴丸たちは持ち前の明るさで前向きに捜索を続けます。
おそらく筆者も含め、刀ステの円盤を繰り返し鑑賞してきたファンの中には
「まさか、五虎退の探し物ってアレなんじゃ」
と思われた方も多かったでしょう。
そう。まだ回収されていないあの「伏線」が五虎退の探しものの正体だったのです。
しかし単に何作も前の伏線が回収されるだけが「刀ステ」の凄さではありません。
ファンの想像をはるかに上回る衝撃の真実が明らかになったとき、笑いの渦に包まれていた劇場は静かにすすり泣く声で満たされていきます。
刀ステファンの間で考察されていた「義伝 暁の独眼竜」の「どんぐり」の伏線がついに…
「どんぐりだ」
様々な伏線が前作「悲伝」で明らかになる中、回収されなかったのが「どんぐりの伏線」。
3作目「義伝 暁の独眼竜」で描かれたあるシーンで、ファンの間で「伏線に違いない」と長らく言われてきた場面です。
五虎退が探していたものは、三日月宗近からもらった「どんぐり」でした。
「義伝 暁の独眼竜」で山姥切国広は、何かに思い悩む小夜左文字の力になろうとするものの、小夜に心を開いてもらえず苦悩します。
大倶利伽羅と歌仙兼定も遠征先で大喧嘩をし、真面目な山姥切国広は思いつめられていきました。
そんな中、主である審神者の提案で遠足に行くことになった山姥切たち。
遠足の行き先は慶長四年の京都・藤ノ森、木々の生い茂る森の中でした。
山姥切「なぜ、どんぐりを拾う!?」
三日月「山といえば山姥切。森といえばどんぐりだろ」
急にどんぐり拾いを始めた三日月宗近と二人きりになったとき、山姥切は「近侍を変わってくれ」と言います。
自信喪失し、弱音を吐く山姥切に三日月が残した助言は、今になって思うと何度も同じ時を円環していたからこそ言える深い言葉でした。
「……山姥切よ。
まだ焦る時ではない。
じっくりと畑を耕し、種を植え、実りの時を待つのだ」
この後山姥切は小夜左文字の苦しみと真摯に向き合い、心を開いた小夜は己の心と向き合うため修行に出ます。
周りに気を遣う小夜は、皆が寝静まる真夜中ひっそりと本丸を後にします。
そこに三日月が、小夜の出発を知っていたかのように現れました。
小夜「……どんぐり?」
三日月「どんぐりじじいからおぬしへの贈り物だ。
寂しくなったらこれを見て、この本丸のことを思い出すといい
(中略)
ここはおぬしの、そして俺たち皆の帰る場所だ」
この時、小夜ちゃんに三日月が渡したどんぐりを、なんと五虎退も持っていたのです。
五虎退はその理由を静かに明かします。
「あのことがある前に、三日月さんが…僕にくれたんです
もし…誰かがこの本丸を離れることがあったら
これを渡すように…って
このどんぐりはお守りなんです
みんながこの本丸に、ちゃんと帰ってこれるようにって」
さらに、へし切長谷部からも驚きの事実が明かされます。
長谷部「俺や不動が修行の旅に出る時も、三日月はそれを…俺たちに渡してくれた」
さらに五虎退はこうも言います。
「三日月さんも持っています…どんぐり
一つだけ、いつも大切そうに懐に入れてました
だから僕、三日月さんはいつか帰ってくるような気がします」
「悲伝」と「慈伝」は二つで一つの物語。どんぐりの伏線が教えてくれるのは三日月宗近を突き動かす「慈悲」の強さと限界
一度は本丸の仲間から敵とみなされた、三日月宗近。
「悲伝」では時の政府により三日月の刀解処分が下り、永禄の変の時代で本丸の仲間たちは三日月と対面。
結いの目となった理由を問われるも三日月は答えず、刃を交わし合うことになります。
本丸にともにいた仲間同士が戦う中、山姥切国広はただ1人、三日月の真意を知ろうと
「待て!まだ三日月から何の話も聞いていない!」
と叫び、三日月の行動の真意を聞き出そうとします。
最後まで仲間たちには結いの目となった理由を話さなかった三日月ですが、山姥切には
「俺は…未来を繋げたいのだ!
そのために、気の遠くなる時間をこの円環の中、過ごしてきた…!」
と何かの使命のため、1人で円環を繰り返していることを伝えています。
「お主たちに背負わせるわけにはいかん」
という言葉も三日月は仲間たちに残していますが、一方で山姥切には
「いずれ分かる時が来る
その時までは、俺はこの円環の中を巡り続けよう
だがこうも思う!!
山姥切、お主ならこの終わりなき円環を断ち切ってくれるのではないかと…!」
と言い、何度繰り返しても結果の変わらない円環という地獄で苦しんでいることが現れています。
昨年京都劇場で「悲伝」を観劇させて頂いた後、三日月が円環する理由は「慈悲」の本質が隠れているのではないかという感想を書かせて頂きました。
「慈悲」とは元々仏教用語で、苦しみを取り除き、楽しみを与えたいと思う心のことです。
仏教は仏の教えという意味ですが、仏は「慈悲」の心を持つ存在と説かれています。
仏・菩薩の衆生をあわれむ心。楽を与える慈と苦を除く悲とをいう。
(大辞林 第三版)
慈悲は私たち人間にもある心で、例えば子を想う親心も慈悲のひとつ。
子どもが何かに苦しんでいたら真っ先にその苦しみを除きたいと思い、子どもが喜ぶことなら何でもしてやりたいと思う慈悲の心です。
しかし実は仏が持つ「慈悲」と、私たち人間の「慈悲」は全く違います。
人間と仏の慈悲が違うとことろはいくつかありますが、中でも大きな違いのうちの一つは、先を見通す智慧に裏付けられているかどうかです。
私たち人間が思う智慧がある人とは、物知りだったり、機転がきいたりする人のことでしょう。
しかし本来の仏教用語でいう智慧とは、遠い先の未来を見通す力のことなのです。
「ありがた迷惑」という言葉があるように、人間の慈悲は相手のことを思ってやった親切が、返ってその人を苦しませることがあります。
我が子を大切に想うあまり「モンペ」と言われるような言動をする親も、まさに先を見通す智慧が無い人間の慈悲がよく現れています。
一方、仏の慈悲は人間が想像も及ばない先を見通す智慧に裏付けられています。
「悲伝」で三日月が言った
「お主たちに背負わせるわけにはいかん」
「いずれ分かる時が来る」
という言葉は、さながら先を見通す智慧に裏付けられた仏の慈悲のようです。
三日月は遠い未来を見通した慈悲で、仲間に敵とみなされても円環を続け、本丸を守ろうとしているのではないでしょうか。
山姥切は三日月が秘めている慈悲の一端を感じ取りますが、三日月が本丸を去り、円環に戻っていくのを止めることはできませんでした。
「慈伝」でも山姥切は三日月の真意を知ることは叶わぬまま、物語は終わります。
しかし、三日月は本丸を出る仲間に「どんぐり」を授けていたことが「慈伝」で明らかに。
鶴丸国永は、山姥切国広の心を代弁するように言います。
「心に非ず…ではない
心は、此処にあったんだ」
三日月が1人背負っている苦しみの裏には、他の仲間たちには計り知れない遠い先を見通す智慧から出た慈悲の心がありました。
三日月の慈悲がたしかなものだと分かった喜び、そして「悲伝」でそのことを悟れなかった悔しさ…
「どんぐり」を手にしたまんばちゃんの姿には、そんな切ない感情が滲み出ているように思います。
本丸の仲間たちが想像できない、遠い先を見通している三日月の慈悲は、さながら仏の慈悲に似ています。
しかし一方で刀剣男士としての三日月宗近は、私たちと同じ人の心をもつ存在。
人間の慈悲が持つ欠点も、三日月は教えてくれます。
円環を巡ることを決意した時の三日月は、自分が消えた後山姥切をここまで苦しめることになるとは思っていなかったでしょう。
円環に入って初めて、どれだけ山姥切を悲しませることになるかを知った三日月は、ひとり涙を流しているのかもしれません。
「慈伝」の物語で大きな役割を果たした三日月は、物語の最後に声で登場します。
「山姥切……楽しみにしているぞ」
それは「どんぐり」を持って修行に出た山姥切に、三日月が贈った精一杯の言葉。
本丸の皆のことを想い、本丸に帰ってきてもらいたいと三日月は念じている。
そして叶うならいつか、自身も本丸に帰りたいと願っている…
「慈伝」と「悲伝」、副題の漢字を組み合わせると「慈悲」になります。
三日月が持つ、遠い未来を見据えた慈悲。
そして山姥切や仲間を結果的に苦しめることになった、人間としての三日月の慈悲の限界。
三日月を突き動かし、そして苦しませ続けた慈悲の心。
人間の慈悲の本質が伝わってくる、表と裏のような物語が「慈伝」と「悲伝」なのではないでしょうか。
※記事中の「義伝 暁の独眼竜」の台詞紹介はこちらから引用させて頂きました。 (より深く刀ステの感動を味わえるので是非読んでみてください)
「戯曲 舞台『刀剣乱舞』義伝 暁の独眼竜」(ニトロプラスオンラインストア)
※アイキャッチ画像…「舞台『刀剣乱舞』慈伝 日日の葉よ散るらむ」第2弾キービジュアル より