【2020/05/30更新しました】
刀ステシリーズ第一部の集大成といえる作品「舞台『刀剣乱舞』悲伝 結いの目の不如帰」。
筆者は2018年6月16日に京都劇場にて初の「刀ステ」観劇で「悲伝 結いの目の不如帰」を鑑賞させて頂きました。
チケットの人気が凄まじいと聞いていたので、最初で最後の機会と思って行きましたが、あと100回は劇場で観劇したい!(無理です)と思うくらい目の離せない引き込まれる展開でした。
末満健一さん脚本の刀ステシリーズは、深いストーリーが観客の心を掴んでおり、物語に隠れるメッセージが多くのファンによって考察されています。
今回は「悲伝 結いの目の不如帰」を鑑賞された方の誰もが衝撃を受けた、「あのシーン」について考察します。
※『刀剣乱舞』って何?「刀ステ」って何?と思われた方は前回記事をご参照ください。
【2018/08/05】大千秋楽公演ライブビューイング鑑賞後、大千秋楽公演でのストーリー変更に関する考察を追加しました。
【2020/05/30】「戯曲 舞台『刀剣乱舞』悲伝 結いの目の不如帰」を購入させて頂いたので、戯曲の内容を元にセリフ等を修正しました。
刀ステ「悲伝 結いの目の不如帰」あらすじ(ネタバレ注意)
西暦2205年。
過去へタイムスリップして歴史を変えようとする時間犯罪者「歴史修正主義者」により歴史への攻撃が始まりました。
歴史修正主義者率いる時間遡行軍による歴史改変を阻止するための抑止力が「審神者」という能力者。
審神者が持つ、物の心を励起する力によって人の形を与えられた刀剣「刀剣男士」たちが「刀ステ」の主役です。
最初に審神者が顕現させた刀剣男士・山姥切国広を一振り目として始まった「刀ステ」本丸。
シリーズ6作目となる今回の「悲伝 結いの目の不如帰」では、この本丸に訪れる大きな転機が描かれます。
「永禄の変」で死ぬ運命にある、室町幕府第十三代征夷大将軍 足利義輝。
この歴史事件が起こる永禄八年に刀剣男士たちは出陣していました。
「……何度目だ……?
儂が死すのは……何度目だ?」
義輝は三日月宗近と邂逅した瞬間、自分が永禄8年5月19日に迎える死を何度も経験していることに気づきます。
歴史上一度しか起こりえない義輝の死が、なぜ何度もあったように感じるのか。
それは「結いの目」である三日月宗近によって「刀ステ」本丸が辿ってきた時間の軌跡が何度も繰り返されていたからでした。
歌仙「結いの目?」
山姥切「歴史を、多くの出来事が寄り集まってできた一本の糸とする。
だが、三日月が存在することで
その歴史の糸が複雑に絡み合ってしまっているとのことだ」
不動「絡み合っているって?」
歌仙「以前の出陣で、僕たちは円環の中に閉じ込められたことがある」
長谷部「関ヶ原か」
歌仙「ああ。あのときは三日月によって、それが敵の仕業であると看破できた。
だが、三日月はなぜそれを知ることができた?」
長谷部「三日月自身が、円環の中にいるということか?」
小烏丸「そう。恐らく三日月宗近という刀は、この時間軸を幾度となく廻っている。
そのせいで、本来ならば一本の歴史の糸が縺れ、捻じれ、絡み合い、時の流れを狂わせているのよ。」
私たちが刀ステシリーズで見てきたのは、三日月が繰り返している円環の一部だったのです。
小烏丸「絡み合った糸を放っておけばどうなる?」
長谷部「固く結ばれた糸は、ほどけなくなるか」
「結いの目」となった三日月は、刀剣男士でありながら歴史を狂わせる特異点となっていたのでした。
また三日月が巡る円環は毎回同じではありませんでした。
悲伝では足利義輝が死ぬときに抱いた、まだ死ねないという強い思いが刀に宿り「鵺と呼ばれる」(後に時鳥(ほととぎす)と名づけられる)という刀剣男士を生み出します。
「しなせない……よしてるさま……ぼくがまもる……」
足利義輝の死の定めを変えようとする「鵺と呼ばれる」は、色んな時代に現れて刀剣男士たちと戦って経験を積み、永禄八年に訪れる義輝の死を無きものにしようとします。
三日月にとって、「鵺と呼ばれる」は果てしなく回ってきた円環の中で初めて現れた存在。
円環の結末が変わるきっかけかもしれぬと思った三日月は「鵺と呼ばれる」を見守る立場を取りますが、最終的に円環は繰り返される結末を辿ります。
山姥切国広が円環の果てで邂逅した「白い三日月宗近」
どんなに変えようとしても変わらなかったという円環の最後は、三日月宗近と山姥切国広の約束の地。
「鵺と呼ばれる」が現れなかった今までの円環では経緯は異なると思われますが、悲伝では「鵺と呼ばれる」を見逃した三日月を燭台切光忠が目撃、不安と不信感を募らせていきます。
そして三日月という「結いの目」が時間遡行軍に見つかり本丸が奇襲を受ける事態に。
刀剣男士たちが敵と交戦する中、「鵺と呼ばれる」を再び見逃す三日月を見た燭台切は、裏切り行為とみなして交戦し、三日月に斬られてしまいました。
時間遡行軍に斬られそうになった山姥切と燭台切を庇って、刀剣男士たちを生み出した主・審神者が初登場します。
審神者が危機に晒されたときに現れたのは、修行から帰ってきた「極(きわめ)」のへし切長谷部と不動行光でした。
へし沼民の筆者は、忠実に再現された「極」の姿と切れ味を増した殺陣が素晴らしすぎて失神するかと思いました(笑)
炎のようなオーラを纏う「極」の刀身をライトセイバーで表現したのも衝撃でしたが、空気の読めるライトセイバーで演出のノイズになるシーンでは光らなくなるというきめ細かい演出も大好きです。
不動と長谷部によって窮地を脱した審神者は、時空に穴を開けて敵を強制的に本丸から退去させます。
そして三日月は時空の穴から本丸を去り、骨喰藤四郎、大般若長光も付いていく形に。
時の政府に敵とみなされた三日月は刀解が決まりますが、三日月は審神者の力が及びにくい時空で抗っていました。
三日月が抵抗していたのは理由がありました。
三日月「……俺はまだあそこで折れるわけにはいかなかった。
やらなければならんことがある。
それに、
山姥切と約束があるからな」
大般若「約束?」
三日月「過去と未来で……
幾度となく交わした約束だ」
骨喰「……三日月……
……あんたは……どれだけ長い時を在り続けたんだ?
……この歴史を……
どれだけ繰り返してきたんだ?」
三日月を破壊する命を受け、永禄の変に出陣した山姥切たちは、葛藤を抱えながらも刃を交えます。
小烏丸「これが円環の中で身につけたお前の力……
もはや刀剣男士をも超えたか、三日月宗近よ」
円環を繰り返してきた三日月の力には、総掛かりで斬りかかっても歯が立ちません。
戦況が膠着する中、大きな地響きが起こります。
鶯丸「なにが起こっている!?」
歌仙「まるで、空が剥がれていくようだ」
小烏丸「時空が崩壊をはじめたか」
時空の亀裂に呑み込まれた山姥切は、義経の歴史から始まり第二次世界大戦まで、様々な歴史を駆けていきました。
三日月の巡ってきた世界の一端を山姥切は初めて知ります。
しかし同時にそれは繰り返されてきた円環の一部でもありました。
最後に山姥切がたどり着いたのは円環の最後である「約束の地」。
いつの時代かも、どこの国かも分からない波の音だけがする場です。
そこに現れたのは全身真っ白になった三日月宗近でした。
なぜ三日月宗近は白くなってしまったのか?三日月が「色」を失った理由
「俺は……未来を繋げたいのだ
そのために、気の遠くなる時間を円環の中で過ごしてきた。」
同じ場所に居合わせた刀剣男士・小烏丸は刀剣男士としての力を失い、人の身を保つのも時間の問題だと言います。
「おぬしとは何度も刀を向け合った。
円環の果てで……」
山姥切にとっては初めての戦いも、三日月にとっては繰り返されてきた円環の最後。
幾度も幾度も山姥切と来た場所であり、別れた場所でした。
全てを見てきた三日月は山姥切にこう言います。
「そうだ、その目だ。
おぬしはいつもその目で俺を見た」
山姥切は繰り返されてきた通り、三日月に敗北。
「(次に手合せする)その時は……俺が勝ってみせる」という山姥切との約束を最後に、三日月は消えていきます。
行先はきっと、これから始まる次の円環の起点なのでしょう。
三日月宗近を演じた鈴木拡樹さんは
「今作の注目ポイントは顕現台詞の意味」
とパンフレットでコメントされています。
三日月といえば、おなじみのこの顕現台詞。
三日月宗近。打ち除けが多い故、三日月と呼ばれる。よろしくたのむ
という自己紹介ですが、たとえば刀ステシリーズのもう一人の主人公である山姥切の
山姥切国広だ。
……何だその目は。写しだというのが気になると?
という自身の物語を語る台詞と比較すると、外見的な刀の特徴しか語らない顕現台詞になっています。
悲伝で登場した義輝は、「鵺と呼ばれる」の協力を得て自身の死の運命を変えようと動きます。
そして正史では永禄の変の時には使わなかったとされる「三日月宗近」を手にしますが
「……これほど美しい刀を……血で汚すにはあまりに忍びない」
と言い、結局は歴史通り使わないまま、自分を討ち取った褒美として後世まで伝えろと言い残します。
「ジョ伝 三つら星刀語り」で骨喰藤四郎も夢の中で見た三日月のことを
「美しい…刀だ…」
と思うシーンがありますが、特に悲伝では山姥切や大般若も「……深く、静かに……美しかった……」「そこに在るだけで美しかった」と言う所があり、三日月の美しさが強調されていました。
瞳のデザインや衣装に現れているように、刀剣男士としての三日月の美しさといえば濃青を基調とした「色」が特徴的です。
その三日月が白くなったということは刀剣男士としての「色」を失っていったと言えるのではないでしょうか。
三日月宗近は「人間」になった?私たちは悠久の時を円環する存在
『刀剣乱舞』の主役は刀に宿った付喪神・刀剣男士。
「刀ステ」の悲伝でも足利義輝がイザナギやイザナミ、コノハナサクヤといった日本神話について語るシーンもあり、「神」の物語という印象を持つ方も多いかと思います。
しかし同時に刀剣男士の本体である刀を打ったのは日本史上の人間たちです。
日本刀が生まれるより前から日本史に根付いている仏教の視点から「悲伝」の物語を見ていくと、より深く感動を味わえます。
仏教思想では人間は迷いの世界を巡る存在だと説かれています。
「六道輪廻」という言葉があり、日本で生まれ育った人には特によく知られた仏語です。
「次生まれ変わったら山姥切の布になりたい」というようなことを筆者のようなオタクは言うことがありますが(笑)何気なく思う「生まれ変わったら」という考え方の根底には仏教の輪廻思想があります。
六道(ろくどう、りくどう)とは、仏教において、衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界(あるいは境涯)のこと。
「業の結果」というのは簡単に言うと、この世生きている間の行い。
死ねば生前の行いに従って、姿を変え六道のどこかへ行き、たった一人で長い長い輪廻転生を「円環」しているのが私たちだと説かれています。
本来なら「付喪神」の三日月宗近は刀という物質を拠り所にした存在。
いくら国宝でもこの世に永遠に存在し続けるものは無いので、いつかは本体であるモノの消失とともに消えていくものでした。
しかし何らかの理由で円環に囚われた三日月は、さながら人間の六道輪廻のように巡り続けることになります。
刀剣男士としての色を失った三日月は、輪廻し続けるという点で「人間」になってしまったのではないでしょうか。
円環の最後である約束の地で、三日月の本心が見える場面があります。
山姥切「あんたは、なにと戦ってるんだ?」
三日月「……いずれ、わかるときが来る。
そのときが来るまでは、俺は円環を巡り続けよう
だが、こうも思う。
山姥切よ、おぬしならこの終わりなき円環を断ち切ってくれるのではないかと……
矛盾している……ははは。
心とは、複雑怪奇だな」
と話しており、果てしなく円環を続ける生に苦しみを感じていることが分かります。
また「鵺と呼ばれる」と言葉を交わしたときにも
「俺たちの戦いも、おぬしたちの戦いも、徒労ではないか」
と三日月は言い、自分だけでなく本丸の刀剣男士たちや審神者が日々戦いを繰り返していることにも疑問を呈しています。
円環の中でどれだけ懸命に戦おうとも目的は果たせず、また次の円環を生きていくだけ。
いかに天下五剣といえど
「おぬしならこの終わりなき円環を断ち切ってくれるのではないかと……」
と、山姥切に一抹の希望を託すようになったのは当然かもしれません。
しかし六道という円環を果てしなく巡り続ける人間も、また同じ。
現代社会でも自分の存在価値が分からず、生きることそのものに疲れてしまう人でメンタルクリニックは溢れかえっています。
六道と聞くと燃えたぎる地獄の世界や餓鬼の世界など、おとぎ話のようなイメージが現代人にはありますね。
しかしこれは生きとし生けるものが迷う輪廻、いわば「円環」の世界を大きく6つに分けた表現で、二十五有という言い方をすることもあります。
衆生の輪廻する三世を25種に分けたもの。
(大辞林 第三版)
※三世…生まれる前、生きている今、死んだ後の世界のこと
輪廻転生していく世界を分かりやすく6つや25に分けて説明しているだけで、本当は生まれ変わり死に変わりする中で私たちが生まれなかったものは無いと仏教では教えられます。
ある時は虫であり魚であり、不如帰であったかもしれない。
悲伝で足利義輝は「儂は何回死んだ」と問いますが、何度死んだか分からない義輝も、私たちの過去の姿の一つかもしれません。
「時間の牢獄」にいることにすら気づかないのが人間。白い三日月は円環の苦しみを教えてくれる
大倶利伽羅「時間を遡ったとしても、関ヶ原の戦いを廻るだけか」
三日月宗近「となれば、閉じられた円環の中で決着をつけなくてはならん。
さもなくば俺たちはこの時間の牢獄に囚われたままだ」
『義伝 暁の独眼竜』で円環と化した関ヶ原の戦いで、三日月は繰り返される時間を「時間の牢獄」と表現します。
しかし本当は「時間の牢獄に囚われたまま」なのは三日月自身のことだったのではないでしょうか。
そして流転輪廻している人間もある意味「時間の牢獄」にいる存在です。
ところが私たちは円環の中にいることも気づいていなければ、円環することが苦しみであることにも気づかずに、毎日を生きていくことに必死です。
六道はすべて迷いと苦しみの世界。
三日月は「円環」する人間と同じ存在となったことで、天下五剣がその色を失うほどの苦しみを背負うことになります。
苦しみから抜け出すには、自分が何に苦しんでいるのかを知ることが第一歩です。
私たち人類を苦しめる様々な恐ろしい病も、病気の存在が分からなければ手遅れになるまで治療もできません。
ガンが体内にあることに気づいていない人は、検査をしなければ気づくことはありませんが、気づかなければ幸せだと言えるでしょうか。
医学が目覚ましい発展を遂げているのは、自覚が難しい病という大きな苦しみを発見し、対処するためです。
同じように「円環」する生の本質が苦であることに気づくことは、本当の意味で人生を色鮮やかなものにするための第一歩でもあります。
真っ白になった三日月は、苦しんでいることにすら気づいていない私たちに輪廻の苦しみを教えてくれているのかもしれません。
悲伝で登場した「鵺と呼ばれる」は足利義輝が最期に手にした複数の刀から生まれ、伝説上は三日月もその内の一振りだったことから、三日月の台詞も話すようになります。
そんな「鵺と呼ばれる」は最期に
「……かえりたい……かえりたくない……」
と言ってこの世を去りますが、これは三日月の思いなのかもしれません。
迷いと苦しみの中で巡り続ける人間のような「円環」の生。
白い三日月宗近は円環から抜け出したい苦しみと、円環を超えた未来を見たい迷いの心で「時間の牢獄」を輪廻しているのではないでしょうか。
【大千秋楽公演ネタバレ有】大千秋楽公演では結末が変化!三日月宗近は円環から抜け出せたのか?
2018年7月29日に上演された大千秋楽公演。
天王洲銀河劇場の夜公演が全国の映画館でライブビューイング上映されました。
筆者も友人と鑑賞してきたのですが、なんと大千秋楽公演では結末が変化します。
悲伝の結末である、時空の亀裂に呑み込まれた山姥切がたどり着く三日月との「約束の地」での戦い。
「繰り返されてきた『最期』の戦い」が大千秋楽で大きく変わります。
まず三日月が山姥切に語る言葉に、「煤けた太陽よ」という『虚伝 燃ゆる本能寺』でのセリフを踏襲する表現が追加されます。
(日本青年館ホールでの公演から追加されたそうです)
そして山姥切がなんと、三日月との戦いに勝ちます。
さらに「(次に手合せする)その時は……俺が勝ってみせる」という山姥切の約束の言葉が「そのときは……今よりも強くなった俺が相手になってやる」に変わりました。
大千秋楽公演で起こった衝撃の結末も、考察してみたいと思います。
まず三日月宗近は、円環から脱出できたのでしょうか。
「そのときは……今よりも強くなった俺が相手になってやる」という山姥切国広のセリフが鍵となるのではないかと筆者は思います。
「約束の地」で山姥切が三日月に勝つことで、刀ステ本丸に顕現したあの性格、あの立ち振舞いをする「結いの目となった三日月宗近」の円環は止まったと思われます。
悲伝のラストには新たな三日月宗近が顕現しますが、大千秋楽公演までの新しい三日月宗近は、どこか暗い表情をしていました。
おそらく悲伝の50公演を超える物語も、刀ステ本丸で「結いの目」となった三日月が何度も円環してきた軌跡だったのでしょう。
またも円環を断ち切れず、本丸の歴史のある地点に戻ってしまったという絶望感が最後に顕現する三日月から伝わってきます。
対して、大千秋楽公演の最後に登場する新たな三日月宗近は晴れやかな笑顔で、口調や振る舞いも「結いの目」となった三日月とは「別人」のような印象がしました。
「そのときは……今よりも強くなった俺が相手になってやる」と山姥切が言っている以上、何らかの「円環」は続くはずなのに、別人と思われる三日月宗近が顕現した。
これは違う三日月宗近という身体に「結いの目となった三日月宗近」の魂が宿ったということではないでしょうか。
結いの目となった刀ステ本丸の三日月宗近が、最後まで言わなかった「円環している本当の目的」は分かっていません。
肉体は別の刀剣男士の三日月宗近であっても、魂は「円環している目的」を果たそうと、また違った形で円環を生み出していくのではないかと筆者は思います。
山姥切は「結いの目となった三日月宗近」が「刀剣男士」として「虚伝」や「義伝」、「ジョ伝」等の時間軸を円環することは断ち切ったと思われます。
しかし「結いの目となった三日月宗近」の魂は「ある目的」が達成されるまで、また円環を始めていく。
実はこの「円環」は仏教で説かれる人間の生の実体に非常に似ています。
仏教では肉体が滅んだあとも残る心が流転輪廻を続けると説かれていて、 この心を「阿頼耶識」といいます。
仏語。唯識説で説く八識の第八。
宇宙万有の展開の根源とされる心の主体。 万有を保って失わないところから無没識、万有を蔵するところから蔵識、万有発生の種子(しゅじ)を蔵するところから種子識ともいわれる。
(デジタル大辞泉)
阿頼耶識とは私たちの意識に登らない非常に深いところにある心で、身近で簡単な表現でいうと魂のようなものです。
「万有を蔵するところから蔵識」とも言われるのは、生きている間に日々私たちが抱いた思いや、遺してきた行いが蓄積されていくのが阿頼耶識だからです。
三日月宗近も同じく、刀剣男士でいう「人」としての姿である肉体が無くなっても阿頼耶識は残り、新たな世界へと旅立っていったのではないでしょうか。
大千秋楽公演で「約束の地」に現れた三日月宗近は、まるで臨終が間近に迫った老人のような動きで山姥切の前に現れます。
仏教哲学の視点から見ていくと、あの三日月の様子は人間でいう肉体が滅んでいくときを表現しているように見えてきます。
肉体という「結いの目となった三日月宗近」という刀剣男士が円環してきた本丸の時間軸は、山姥切によって断ち切られました。
しかし「ある目的」を果たすため円環を巡り続け、様々な思いや行いを積み重ねて出来上がった「結いの目となった三日月宗近」の魂は、新たな「三日月宗近」の刀剣男士としての肉体に転生しても存在し続けるのではないでしょうか。
大千秋楽公演で「結いの目」となった三日月は山姥切を「煤けた太陽」と呼びました。
輪廻を繰り返し疲れ果てた三日月は、迷い続ける円環の苦しみを断ち切る太陽として山姥切に救いを求めます。
しかし肉体の円環は山姥切が断ち切ってくれても、魂に刻まれた「ある目的を果たしたい」という無限の時間で積み重ねた思いや行いは消せない。
もし悲伝の最後に現れた三日月宗近が「結いの目となった三日月宗近」の阿頼耶識が転生した新たな三日月宗近の身体だったとしたら。
彼はひょっとしたら「維伝」から始まった新たな「刀ステ」の物語のどこかで、再び現れるかもしれませんね。
今後の「刀ステ」の展開がどうなっていくのか期待を膨らませつつ、このコラムを終わりたいと思います。
★このコラムの続編をアップしました★
※記事中の「義伝 暁の独眼竜」「悲伝 結いの目の不如帰」のセリフ紹介はこちらから引用させて頂きました。 (より深く刀ステの感動を味わえるので、とてもオススメです!)
末満健一(2018)「戯曲 舞台『刀剣乱舞』義伝 暁の独眼竜」ニトロプラス
末満健一(2020)「戯曲 舞台『刀剣乱舞』悲伝 結いの目の不如帰」ニトロプラス