12月28日は、Fateファンにとってはおなじみ『外道麻婆』こと言峰 綺礼の誕生日ですね!
ファンの方々はワインを飲みながら麻婆豆腐を食べたくなる時期かと思いますが、私もFate/Zeroの言峰 綺礼をテーマに、『本当の私』について、前回に引き続き仏教の視点から考えてみたいと思います。
この記事の内容は前回からの続きになります。(単体でも読めますが、前編を読んで頂けるとより分かりやすいかと思います(o^-^o))
言峰 綺礼の人生から考える『本当の私』【前編】|Fate/zeroから学ぶ仏教[2] | 20代からの仏教アカデミー
前回に引き続き、大好きな作品Fate/Zeroから、仏教の深さをお伝えできたら幸いです!
スマホゲーム、Fate/Grand orderが現在好評稼働中のFateシリーズ。そのスピンオフ作品であり、根強い人気から現在アニメも再放送中のFate/Zero。この作品に登場するキャラクターから、私たちが学べることを仏教の視点から考えていくシリーズがこの記事です。
※前回同様、「これからFate/Zeroを見ようと思っているので、ストーリーの内容を知りたくない!」という方はお気をつけ下さい。
綺礼が“問わねばなるまい”と思ってきた『本当の私』―――なぜその答えは得られなかったのか?
幼い頃から何に打ち込んでも虚しい人生を送っていた言峰 綺礼。すさまじい努力により、神学校を二年飛び級でトップの成績で卒業。厳しい修行に打ち込んだ末、エリート聖職者『代行者』にまで任命されるも、彼の心の闇は晴れることがありませんでした。
厳しい信仰の道と修行に打ち込み、周囲から賞賛を受ければ受けるほど『今の自分は、本当の自分ではない』と思う気持ちが強くなっていきました。
そんな綺礼は願望も理想も持たない人間でしたが、どんな願望も叶える『聖杯』に選ばれた綺礼は、『本当の私』が抱く願望があるはずでした。
しかし、どんな苦行に打ち込もうとも、『本当の私』がはっきりすることがなかった綺礼は、自らが本当に求めている願望も理想も、はっきりしない人生を送っていました。
なぜ分からなかったのでしょうか?
綺礼に限らず、私たち人は皆、幾つもの仮面をつけて生きていると言われます。
会社では「有能な社員」の仮面を必死に被って仕事に打ち込み、家庭に帰れば「良き夫」「良き妻」の仮面を被る。子供の前では「良きお母さん」「良きお父さん」の仮面を被り、飲み屋で会社の同期に見せる顔、近所の奥様方に見せる顔もまた違います。
私も人のことは言えないというか、12年以上アニメ&ゲームオタクとして生きていると、趣味の話ができるオフ会で本名も知らない仲間たちの前で『萌えトーク』をする自分の姿は、職場や家庭ではとてもじゃないけど見せられません(笑)
Twitterのアカウントを「会社や家族が見るアカウント」「趣味の話をつぶやくアカウント」「身近な友人だけ繋がっている本音用アカウント」・・・と何個も作っている人も珍しくありませんね。
いつも前向きなツイートをしている人だと思って近づいたら、別のTwitterアカウントで愚痴をひたすら垂れ流していて、ショック!なんて話もよくあります。
しかしこれは、それだけ私たちが日々たくさんの「私」という仮面をつけたり、外したりしている現実のほんの一側面でしかないのです。
大人だけではありません。子供も子供で、友達には一目置かれたいので、“良い友達”、“面白い友達”を演じています。
周囲の人間からよく見られたい。いわゆる「見栄」を満たすために、私たちは場所や相手によって、いろいろな仮面を使い分けているのです。
まさしくFate/zeroに出てくるアサシンのように、私たちは『百の貌』を使い分けているのかもしれません。
子供が仮面をうまく使い分けられるようになると「大人になったね!」と言われます。でも常に仮面を付けて「良い人」を演じ続けるうちに、どれが本当の自分か分からなくなってしまいます・・・
自分の素顔が分からなくなると、自分は何者かまで分からなくなり、自分が本当に望んでいることや、自分が本当にやりたいことを見失って、生きる力をなくしてしまうこともあります。
父の前で良き息子となり、教会ではエリート代行者として活躍し、信徒の前で優しい神父となる。綺礼も、いくつもの仮面を使い分けるうちに、『本当の私』が分からなくなったのかもしれません。
『本当の私』が分からないから、自分が本当に望んでいることが分からなくて、生きる力を失ってしまう。 綺礼の瞳がいつも、底なし沼にように真っ暗に死んでいるのも、なんとなく納得してしまいます。
さて仏教では、『本当の私』が分からないのは、“近すぎるから”だと言われます。
私たちの目はいろんなものを見ることができますが、目のすぐ隣にある眉や顔を、直接見ることは一生できません。
それはあまりに、目に近すぎるからです。“目、目を見ることあたわず。刀、刀を切ることあたわず”で、視力が2.0ある人でも、自分の目を直接見ることはできません。セイバーのエクスカリバーでもその剣自体を切ることはできないようにどんな名刀もその刀自体を切ることは不可能です。
今月ニュースで話題になっていた「はやぶさ2」や「あかつき」で、はるか遠い宇宙の様子を見ることができる科学者だって、自分の顔についた米粒にはなかなか気づけないものです。
同じように、どんな頭のいい人でも『本当の私』は分からない。では、近すぎる『本当の私』を知るにはどうすればよいのでしょうか?
頬っぺたに付いた米粒に気づくには、鏡を見ますよね。同じく、近すぎる自己の姿を知るには鏡が必要です。仏教でも、そんな鏡について教えられています。
鏡というのは、私たちの姿を正しく映してくれるかどうかが大事です。ダイエット中で痩せたいからといって、お風呂場の鏡が、実際の私より「細い私」を映す鏡では困りますよね。イケメンに生まれたかったからと言って、鏡に映る姿だけFate/zeroのディルムッドみたいな顔でも意味がありません。
しかし仏教なんて聞かなくても、他人から指摘されたり、評価されたりするなかで本当の自分が見えるのではと思う人が多いです。そんな他人からの評価について言峰綺礼を通じて説明します。
他人による鏡に映った綺礼の姿
綺礼は父親の意向で、教会から課せられた任務として、万能の願望器『聖杯』を奪い合う殺し合い、『聖杯戦争』に参加することになります。
その目的は、父親の信頼する友人、遠坂 時臣が聖杯戦争に勝利し、聖杯を手にできるよう協力すること。元々綺礼の仕事は、神への反逆となる術を使う魔術師を殺す『代行者』。そのため、時臣は本来敵となるはずの人間です。
しかし父親の友人を勝利するという目的のために、三年も綺礼は遠坂 時臣の家で暮らし、毎日今まで敵視していた魔術の勉強と修行に打ち込みます。
はたして三年間、衣食を共にした師匠、時臣との生活で綺礼は『本当の私』を見つけることができたのでしょうか?
この屋敷で三年に亘り続けられた時臣と綺礼の師弟関係は、どこまでも皮肉なものだった。
綺礼の真摯な授業態度と呑み込みの速さは、師からしてみれば申し分のないものだったらしい。そもそも魔術を忌避して然るべき聖職者でありながら、あらゆるジャンルの魔術に対して興味を懐き、貪欲な吸収力でそれらの秘技を学んでいった綺礼の姿勢は、時臣を大いに喜ばせた。
いまや時臣が綺礼に対して寄せる信頼は揺るぎなく、一人娘の凜にまで、綺礼に対して兄弟子の礼を取らせている程である。
だが時臣の厚情とは対照的に、綺礼の内心は冷めていく一方だった。
綺礼にしてみれば、なにも好きこのんで魔術の修練に没頭していたわけではない。
永きに亘る教会での修身に何ら得るところのなかった綺礼は、それと正逆の価値観による新たな修業に、いくばくかの期待を託していただけのことだ。だが結果は無惨だった。
魔術という世界の探究にも、やはり綺礼は何の喜びも見出せず、満足も得られなかった。心の中の空洞が、またすこし径を拡げただけのことだった。
そんな綺礼の落胆に、時臣は露ほども気付かなかったらしい。はたして“父の璃正と同類”という見立ては、ものの見事に的中した。
『Fate/Zero 1 第四次聖杯戦争秘話』より
三年間も共に生活をし、魔術の弟子として綺礼を見てきた時臣ですが、綺礼が問い続けてきた疑問でもある『本当の私』を見抜くことはできませんでした。
これは決して、時臣が無能だったからではありません。
時臣は魔術師の名家の当主であり、当主としてふさわしい魔術師になるための努力を続けてきた人間。聖杯戦争が始まる何年も前から準備を整えており、戦略的で優秀な魔術師でした。
なぜそんな時臣も、綺礼が知りたい『本当の私』を見出すことができなかったのでしょうか?
都合によって歪められる他人からの評価
私たちは、少しでもよく他人から評価されたいと日々努力しています。
男性なら朝、ヒゲを剃るのも、女性なら、眠い目を必死に開いてメイクをするのも、それだけ他人からの評価を重視しているからです。気にしないと生きていけません。無人島にいれば、髭を剃るカミソリもアイライナーも必要ないでしょう。
他人から見た「言峰綺礼」は『信仰にまっすぐな、非のうちどころのない完璧なエリート聖職者』でした。しかし、時臣は気づきませんでしたが、綺礼はこの姿は『本当の自分』ではないと漠然と感じ、悩んでいたのでした。
それはなぜか?見る人の『都合』でコロコロ変わるのが、他人からの評価だからです。
大学生のとき春休みになると、どの授業を選択するかを相談するため、私はよく友人と集まっていました。
そのとき話題にのぼっていたのは
『このA先生は、出席カードの提出がないし、レポートだけで単位くれるから、良い先生やで!』
『B先生は、毎回授業に出席しているかどうか調べるし、テストもレポートもあって鬼らしいわ』
『まじで!じゃあ絶対A先生の授業取るわー!!』
などなど・・・
『単位を簡単にくれる先生』=『良い先生』
『単位が取りづらい授業の先生』=『悪い先生』
という基準で、授業を選択していました。
でもこれって、実は完全に学生の『都合』な訳です。
私が研究室でお世話になった先生は、授業もテストも難しく、冗談も言わない寡黙な人で、授業を選択した学生からはあまり人気が高い方ではありませんでした。そのためゼミを選択するときに、失礼ながら『この先生のゼミで、私卒業できるかなあ・・・』と、思ってしまいました。
しかしゼミに入ってみたら、夜遅くでも土日祝日でも丁寧にゼミ生の研究の指導をしてくれ、卒論も何度も添削してくれる先生で、ゼミの先輩方から慕われていました。寡黙ですが研究や指導に対する気持ちは真摯で丁寧な先生であることが徐々に分かってきたのです。
卒業論文も夜中までかけて、一字一字をチェックしてくださり、無事卒業ができました。
指導を受けているうちに、これまで抱いていた『テストが難しい嫌な先生』のイメージから、『ゼミ生の面倒をしっかり見てくれる先生』に様変わり。先生は同じ人なのに、『都合』によって変わった訳です。
これが他人からの評価の特徴なのですね。
誰もがその時々の都合で他人を評価しますから、同じ人間が善人にも悪人にもなります。『今日ほめて 明日悪くいう 人の口 泣くも笑うも ウソの世の中』と、アニメ『一休さん』のモデルとなった禅僧、一休さんも、こう言って『他人鏡』に一喜一憂している私たちを笑っています。
実際は『豚は褒められても豚、ライオンはそしられてもライオン』で、人の価値はそう簡単に変わるものではないのです。
『時臣を勝利させる』という目的のために、本来敵対する魔術師の修行に熱心に打ち込んだ綺礼は、時臣にとってこの上なく『都合』が良い人間でした。命懸けの戦いに、綺礼は自分を助けるためだけに参加してくれる上、共闘の末『何でも願いを叶える』聖杯が手に入れば、その聖杯は自分のものになる訳ですから。こんな『都合』の良い人間、なかなかいないのではないでしょうか(笑)
仮に綺礼が『やっぱり叶えたい願い事出てきちゃったから聖杯ゲットしたら私が使いたいで~す (・ω<) テヘペロ』なんて言い出したら、時臣は綺礼をどんな人間だと捉えるでしょうか? おそらく『三年間もみっちり魔術を教えてやったのに、なんて恩知らずで薄情な奴だ!!(# ゚Д゚)』と思うのではないかと思います。 そして実際綺礼は、師匠や父親には褒めちぎられていますが、世界中の人にほめられていた訳ではありません。 主人公の切嗣は、部下に綺礼の経歴や素性を調べさせたデータを見て、妻のアイリスフィールと、このような会話をしています。
「誰よりも激しい生き方ばかりを選んできたくせに、この男の人生には、ただの一度も“情熱”がない。こいつは――きっと、危険なヤツだ」
「この男はきっと何も信じていない。
ただ答えを得たい一心であれだけの遍歴をして、結局、何も見つけられなかった……そういう、底抜けに虚ろな人間だ。
こいつが心の中に何か持ち合わせているとするなら、それは怒りと絶望だけだろう」「……遠坂時臣やアーチボルトよりも、あなたにとっては、この代行者の方が強敵だと?」
しばし間をおいてから、切嗣はきっぱりと頷いた。
「――恐ろしい男だな。
たしかに遠坂やロード・エルメロイは強敵だ。だがそれ以上に、僕にはこの言峰綺礼の“在り方”が恐ろしい」
「在り方?」
「この男の中身は徹底して空虚だ。
願望と呼べるようなものは何ひとつ持ち合わせないだろう。そんな男が、どうして命を賭してまで聖杯を求める?」
『Fate/Zero 1 第四次聖杯戦争秘話』より
切嗣からは『底抜けに虚ろな人間』『徹底して空虚』『怒りと絶望しか持ち合わせていない』『恐ろしい男』と、散々な評価です。しかも、聖職者である綺礼のことを『この男はきっと何も信じていない。』とまで言っています。これはひどい。
綺礼の父が
『同僚たちの中でも、アレほど苛烈な姿勢で修業に臨む者はおりますまい。見ているこちらが空恐ろしくなる程です。』
『教会の意向とあれば、息子は火の中にでも飛び込みます。アレが信仰に懸ける意気込みは激しすぎるほどですからな。』
『時臣くん、どうか息子を役立ててください。アレは信心を確かめるために試練を求めているような男です。苦難の度が増すほどに、アレは真価を発揮することでしょう』
と言っていたのと比べると、とても同じ人物の評価とは思えませんね。
切嗣は聖杯戦争の参加者として、今後戦うことになる敵として綺礼のことを調べていました。顔を合わせた日には自分が殺されるか、綺礼を殺すかしかありませんから、この上なく『都合』の悪い人物です。できれば自分が出会う前に死んでいてほしい相手なのですから。
このように、見る人の都合でコロコロ変わるのが、他人の評価な訳です。これでは本当の自分は映し出すことはできません。
お釈迦様は『皆にてほむる人はなく、皆にてそしる人はなし』と言われています。
たくさんの人が集まれば、全員の都合や利害が一致することは絶対にないので、どんな立派な人でも皆から褒め称えられることはない。
お釈迦様でさえ、当時の人たちの三分の一はお釈迦様の存在すら知らず、三分の一は変な奴が現れた!と非難し、あとの三分の一が尊い方だと賞賛したそうです。
もちろん、他人の評価なんてどうでもいい!ということではありません。
本人のために『言ってあげた方が良いなあ』と思う注意や忠告も、自分が嫌われたくないために、なかなか言えないのが私たちというもの。言いにくい忠告を、私のために言ってくれる親や先輩、友人は貴重です。
そういう忠告やアドバイスは努めて改めていけるよう、私も自戒したいです。
ただ、人間は自分の『都合』というフィルターを通し、他人を見てしまいがちなのも事実。『ある人に悪口を言われた=私はダメな人間だ』と思う必要はありません。悪口を言っていた人の都合にたまたま合わないことをしていただけ。
反対に周りの人間から褒められたから、有頂天になるのも危険です。
悪口をネットに書き込まれまくろうが、受賞して人前でインタビューされようが、『私』の価値自体は少しも変わらないのです。
周りから好かれる人になるために、親切の心や努力を大切にすることはとても大切ですが、『他人の評価』という、コロコロ変わる鏡ばかりを気にして、無理して良い人を演じ続けるのは疲れてしまいますよね。
さて、他人の評価という鏡からみた私は『本当の私』ではないことがわかりました。
では、他人の評価という鏡がダメなら、どんな鏡が私の本当の姿を映すのでしょうか。綺礼が問い続けてきた『本当の私』を映す鏡とは何か。
“問わねばなるまい・・・!”
ということで、このテーマでもう少し、続きます。
今回も読んで下さって、ありがとうございました!(*^▽^*)
参考
小説版1巻が以下から読むことができます!無料です!
Fate/Zero 1 全文公開中! | 星海社文庫『Fate/Zero』 | 最前線