こんにちは。僕が週3くらいで通っていた油そばの美味しい店がまさかの移転になり、涙で枕を濡らす日々が続いていました。そんな眠れない夜、ふと思い出したのが「さよならだけが人生だ」という言葉。
「確かにそうだよなぁ…」と思う反面、「いやいや、何か1つくらい例外はあるでしょ!」という反発心も起こってきて、さまぁ~ずなみにモヤモヤしてきました。
実際、「さよならだけが人生だ」というのは事実なのでしょうか?今回は僕が考えた過程と、その結論をお伝えしたいと思います。
「さよならだけが人生だ」の元ネタって?
そもそも、これって誰が言った言葉なのでしょうか。
僕がこの言葉に出会ったのは、寺山修司の「ポケットに名言を」という本のなかでした。印象深い言葉だったので記憶の片隅にへばりついていたのですが、詳しく思い出せずもう一度本を紐解いてみました。
そこに書いてあったのは、
「ポケットに名言を」の言葉・花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生だ
(井伏鱒二『厄除け詩集』)
との文字。「おお~マジか!元ネタは井伏先生の言葉なのか~」とちょっと衝撃を受けました。
井伏鱒二というのは、あの太宰治の先生にあたる人物です。「黒い雨」や「山椒魚」といった作品が有名ですね。特に「山椒魚」は読んだことがある方も多いかもしれません。
もう少し、この言葉について調べてみると、井伏鱒二が「勧酒」という漢詩を訳した言葉だということがわかりました。
「勧酒」というのは、唐の時代の于武陵(うかんりょう)という人が作ったもので、原文では以下のようになっています。
勧酒
勧君金屈巵 君に勧む金屈巵
満酌不須辞 満酌辞するを須ひず
花発多風雨 花発きて風雨多し
人生足別離 人生別離足るコノサカズキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
大雑把な意味としては、「この杯で酒を飲んでくれ。並々と注いであげる。花が開けば風雨で散ってしまうように、人生は別れがつきものなんだから。」という風になります。
こういう風に聞くと「その通りだよなぁ」と納得はできますよね。では次に井伏鱒二がどう訳したかを見てみましょう。
井伏版の訳ではどうなっている?
井伏鱒二が訳したものは「名訳」として知られており、自然な日本語で表現されています。諸説あるのですが彼がどんな訳をしたかと言うと…
この杯を受けてくれ どうか並々、注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生だ
引用:井伏鱒二『厄除け詩集』
流石、井伏先生。余韻を感じさせる素晴らしい訳ですね。いままで、当たり前のように酌み交わしていた友との酒もこれが最後。もうこの時間を楽しむことは出来ないのだから、せめて並々と酒を注ごう…
まさに「友人との別れに際して、酒を勧める」という情景がありありと浮かんできます。
でも気になるのは井伏鱒二の訳では「さよならだけが人生だ」と表現されています。「人生に別れはつきものだよ」と言われれば納得はできるのですが、どうしてもさよなら「だけ」とは思えません。
なぜ、井伏鱒二は「さよならだけが人生だ」と訳したのでしょうか。どうしてもその点が腑に落ちなかったので、じっくりと考えてみました。
別れに例外はあるのか、ないのか
僕の至った結論を先に言うと、別れに例外はありません。別れるのが早いか遅いかという違いしかないのです。
まず、「別れる」と言うときに対象となるのは「モノ」か「人」かの2つしかありません。それぞれについて考えた過程を順を追って紹介します。
モノとの別れとはどういうことか
まず、モノについて考えてみました。スマホ、カバン、洋服、財布…僕らは色々なものに囲まれて毎日生活していますよね。
そういったモノに囲まれている状態を僕らは「普通」だと思っていますが、その状況はいつまでも続くわけではありません。
例えば、ピカピカの新品だったスマホも、地面に落としたら割れてしまう。そしていつしか調子が悪くなって買い替える…なんてことは誰しも経験があることではないでしょうか。僕らは自分の所有物でもずっと同じ状態で持ち続けることはできないのです。
人との別れもやってくる
また、人の場合でも別れは必ず訪れます。例えば、あなたは小学校、中学校、高校…と順々に通ってきましたが、何度も友達との別れを繰り返してきたはずです。
新しい人と出会うということは往々にしてありますが、その分連絡を取らなくなった人はどのくらいいるでしょうか。自分のスマホにも、かつての友達の名前が何人分も残っています。
このように人生の要所要所において、必ず別れがやってくるのです。
ちょっとまって、でも例外はあるんじゃ?
このように考えると確かにモノとも人ともサヨナラするのが人生ですが、「必ずしも別れはやってこないのではないか?例外があるのではないか」という疑問がやはり出てきます。
でも、必ず別れなければならないという決定的な原因に気づいてしまいました。
それは、僕らが必ず死ななければならないということ。
ただの別れなら再び出会うこともあるかもしれませんし、モノなら買いなおせばいいかもしれませんが、死んでしまえばすべてのものと永遠に別れなければなりません。そして、悲しいことに誰も否定できない死という別れが僕たちの人生には待っているのです。
だから、どんな出会いがあっても僕らは最後には別れてしまう。まさに人生、最後の最後はさよならだけしか残らないのです。
実は仏教でも説かれていた
驚いたことに、この内容は仏教の中にも説かれています。例えば、
仏典のお言葉
・会者定離
という言葉があります。これは読んで字のごとく「出会ったものは必ず別れなければならない」ということ。もしかして、井伏鱒二もこの言葉を知っていたのかな?と思ってしまうほどですね。
当たり前と言えば当たり前なんですが、今から2600年も前に「絶対に例外はなく、別れで終わる」ということを断言しきっているのがすごいと感じます。
世の中は無常ですべてのものが続かない。だから、私たちが出会うものや手に入れたものも一時的なもので、必ず別れがやってきます。たとえサヨナラすることなくうまくいったとしても、人生の最後には「死」という別れが口を開けて待っているのです。
…これだけ聞いてくると「サヨナラだけが人生なのか…そんなの聞きたくなかったよ…」と感じますよね。ですが、この人生のすがたを真正面から見つめ、解決の道を解き明かしたのが仏教という教えなのです。
仏教の「お経」は何かの呪文でもなければ、死者のためのものでもありません。生きている、いま、死という問題をハッキリと解決できると教えているのです。
では、一体どんなことが教えられているのか。ここでは深い内容をお伝えすることはできませんでしたが、LINEではより深く、濃い内容をお伝えしています。ぜひ、一緒に学んでみませんか?
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