【2018/7/5投稿 ※2019/05/20追記、2020/05/09修正しています】
2018年夏に上演された「舞台『刀剣乱舞』悲伝 結いの目の不如帰」は「刀ステ」シリーズの集大成として発表された作品。
「刀ステ」本丸で繰り広げられてきた物語が一つに繋がる展開は、大きな話題を呼びました。
筆者は京都劇場で「悲伝」の深いストーリーの虜になり、大千秋楽ライブビューイング、アーカイブ配信も鑑賞させて頂き、Blu-rayも無限周回する毎日です。
新作公演を前に、「悲伝」の物語が教えてくれる深い人生哲学から、タイトル「悲伝」の意味について考察したいと思います。
「刀ステ」とは?広がる「刀剣乱舞」のメディア進出
「舞台『刀剣乱舞』」略して「刀ステ」はDMMゲームズとニトロプラスによる刀剣育成シミュレーションゲーム『刀剣乱舞-ONLINE-』を原作とする演劇作品です。
原作ゲーム『刀剣乱舞-ONLINE-』はリリース直後から人気が爆発。
社会現象となり、2015年に「刀剣女子」2017年に「刀剣乱舞」がユーキャン新語・流行語大賞にノミネートされました。
「刀剣乱舞」はメディアミックスの成功も特徴的で、2社によるアニメ化のほか「刀ミュ」と呼ばれる「ミュージカル『刀剣乱舞』」や『映画刀剣乱舞』、そして今回ご紹介する「刀ステ」など「2.5次元」と言われるジャンルにも展開しています。
今年2020年1月14日に5周年を迎えた「刀剣乱舞-ONLINE-」。
ミュージカル『刀剣乱舞』、舞台『刀剣乱舞』を中心とした初の合同大型イベント「刀剣乱舞 大演練」の開催も決定、さらに「刀ステ」の注目が高まっています。
筆者は友人が見せてくれた「虚伝 燃ゆる本能寺」の円盤を鑑賞し「刀ステ」沼にまっしぐら。
2018年6月16日、京都劇場公演の「悲伝」で刀ステを初観劇させて頂きましたが、開幕30分以内に涙が流れ、展開が進むにつれ目から常に冷却材。
こんなに泣きながら見た作品は後にも先にも無いと思います。
誰かと感動を語り合わずにいられない深いストーリーとシリーズ最多の圧倒的な殺陣の迫力。
一瞬も目を離せない、最高の集大成でした。
※この後ネタバレ有りの感想になります。未視聴の方はご注意ください。(ネタバレは見ずにご視聴されることを強くオススメします)
【ネタバレ注意】「悲伝 結いの目の不如帰」あらすじ 明らかになる三日月宗近の正体
「……何度目だ……?
儂が死すのは……何度目だ?」
悲伝のストーリーで一番大きい要素は、何といってもついに明らかになった三日月宗近の真実です。
永禄8年5月19日、永禄の変。
室町幕府13代将軍・足利義輝が暗殺される歴史事件から「悲伝」の物語は始まります。
過去に遡り歴史を改変しようとする時間遡行軍が、足利義輝の死の定めを覆そうとしていました。
歴史を守るため、出陣していた刀剣男士の内の一振り・三日月宗近に、足利義輝は斬りかかります。
足利義輝「……お前が不如帰か?」
三日月宗近「不如帰?」
義輝「……人を死出へと誘う冥府の遣いよ」
三日月「生憎だが、俺はおぬしと戦うつもりはない」
義輝「この命、ここで散らすつもりはない。
第十三代征夷大将軍、足利義輝。
この剣を以て示そうぞ。儂の時代は、まだ終わらぬと!」
三日月宗近に斬りかかった足利義輝は、刀を交えた瞬間に永禄の変での死を何度も繰り返していることに気づきます。
「儂は……幾度死んだのだ!?」
刀ステシリーズの本丸でこれまで描かれてきた、本能寺の変や関ヶ原の戦い、小田原征伐、そして永禄の変での刀剣男士と時間遡行軍との戦い。
これら本丸で起こったことは円環、つまり同じ時間を繰り返しループしていたことが明らかになります。
三日月宗近は唯一人このループを何度も何度も巡っていたことが分かり、シリーズ全体に張られていた様々な伏線のうち、例をあげると
- 「虚伝 燃ゆる本能寺」再演での三日月宗近の仕草や口調の変化
- 「虚伝 燃ゆる本能寺」再演で蘭丸が言った「上様を今度こそお守りするんだ」という言葉の意味
- 「義伝 暁の独眼竜」で三日月宗近が「この本丸で起こるやもしれぬ試練」「もし叶うなら、それ(本丸の成長)を見届けたい」と言った真意
- 「ジョ伝 三つら星刀語り」で三日月宗近が顕現するなり骨喰藤四郎にお守りを渡したこと
といった謎の答えが一気に明かされました。
「白い三日月宗近」と山姥切国広の終わりで始まりの時。悲伝で残された大きな謎
一方で悲伝は大きな謎を残したまま幕を閉じます。
時間のループが始まったのは三日月宗近が原因。
巻き戻した時間軸の中で刀剣男士たちが負けたこともあったが、歴史は変わらなかったと三日月は言います。
円環の中には不動行光が明智光秀を殺してしまったり、山伏国広が折れたりした時間軸があったのかもしれません。
悲伝で登場した「歴史を変えようとする刀剣男士」である時鳥(ほととぎす)が現れても、円環の結末は変わりませんでした。
「義伝 暁の独眼竜」で三日月は山姥切とこんな会話をします。
三日月「俺はただ……この本丸に強くあってほしいだけだ」
山姥切「なぜそう願う?」
三日月「……いずれ来るやもしれぬ、大きな試練と立ち向かうためにだ」
この「いずれ来るやもしれぬ試練」を、山姥切は三日月が本丸を去ることではないかと推察しますが、真実は分かりません。
悲伝では時間を何度も巻き戻した三日月により時間の「結いの目」ができ、時間遡行軍に本丸が襲撃されることに。
遡行軍を強制的に時間遡行させるため、審神者は本丸の上空に大きな門を開けますが、三日月はその門から本丸を去ってしまいます。
骨喰藤四郎、大般若長光は三日月に同行し、その後鶯丸、大包平、鶴丸国永たちも三日月宗近を追って出陣。
その後政府から結いの目を生み出した三日月宗近の刀解(人間でいう殺害)命令が下り、抵抗する三日月の討伐を審神者が命じます。
出陣先の永禄の変にて山姥切たちは総掛かりで三日月に挑みますが、円環を何度も巡ってきた三日月の力は凄まじいものでした。
誰も切り込めずにいたところ、時間を何度も巻き戻したことにより時空の崩壊が発生。
時空の割れ目に飲み込まれた山姥切は様々な歴史をさまよい、波の音が聞こえるいつの時代か、どこかも分からないある場所にたどり着きます。
そこに現れたのは、真っ白な三日月宗近でした。
やっとのことで立っている三日月は、小烏丸曰く、衰弱し人の形を保つことが難しくなりつつある状態。
しかし三日月と刃を交わした山姥切国広は負け「(次に手合せする)その時は……俺が勝ってみせる」という繰り返し交わされた約束を残します。
なお大千秋楽公演では結末が変化し、山姥切国広が三日月宗近に勝利。
三日月「……強くなったな、山姥切国広よ」
山姥切「……」
(中略)
三日月「山姥切国広よ、おぬしとの手合せ、存外楽しかったぞ。
またこうして、おぬしと刀を交わしたいものだ」
山姥切「そのときは……今よりも強くなった俺が相手になってやる」
と約束を交わします。
詳細はこちらのコラムでご紹介しています。
この最後の戦いをループの最終点として、円環が続くなら三日月は再び何千回か何万回のループに戻っていくのでしょう。
しかしこの種明かしにより、大きな謎が2つ生まれます。
- 三日月宗近はなぜ円環の中から出られないのか(円環している理由は何か)
- 円環はどこから始まっているのか
今後の新作ないし新シリーズで、この2つを大きなテーマとして物語が展開されることに期待したいですね。
「悲伝」の「悲」は本当に「悲しみ」なのか?「悲」の意味を考察する
「刀剣乱舞」で活躍するのは、物の心を励起(れいき)する能力者「審神者」(さにわ)の力によって生み出された刀剣に宿りし付喪神「刀剣男士」。
付喪神信仰をベースとした世界観で、悲伝の中でも足利義輝が日本神話について語るシーンがありました。
ある意味「神」の物語というイメージがありますが、実は今回の「悲伝」は仏教哲学に通ずる部分が多く、仏教的視点から味わうとより深く味わえます。
「悲伝」の「悲」は劇中で、小烏丸が円環に戻っていく三日月を見送った山姥切に向かって言った
「悲しいか。
心無くばそのような思いをせずにすむのだが、我らには心がある。
知っているか?
心に非ずと書いて悲しいとなる。
心あるゆえに悲しみはあるというのに、心に非ずとは、皮肉なものよな」
という言葉にもあるように「悲しみ」の「悲」として描かれますが、このメインテーマ「悲伝」の意味を少し違った角度から考えたいと思います。
悲伝の序盤では、最初「鵺(ぬえ)」と呼ばれていた新たな刀剣男士(後に時鳥(ほととぎす)と命名)を三日月が見逃したところを燭台切光忠が目撃。
燭台切は三日月への不信に苦しんでいきます。
「時鳥」は三日月が繰り返す円環の中で初めて登場しますが、最終的に燭台切は三日月を一度敵とみなして戦い、斬られてしまいます。
三日月曰く必ず起こることなので、きっかけは違えど燭台切は不信の念を抱き、一度は斬られてしまうのでしょう。
燭台切が誰にも相談しないところに「もてなし」に代表される燭台切光忠の持つ優しさと繊細さを併せ持つ性(さが)が現れているようで、筆者はとても好きな描写です。
そんな燭台切をはじめとし、最終的に本丸の刀剣男士たちと三日月は対決することになります。
三日月は仲間たちに弁明せず、円環している理由は悲伝では明らかになりませんが、一つ三日月の心中が現れるセリフがあります。
それは
「おぬしたちに背負わせるわけにはいかん。」
という言葉。
背負わせる訳にはいかないということは、目的は不明にしろ、三日月は決して私利私欲のために円環しているのではないと思われます。
「悲伝」は三日月宗近と山姥切国広が「慈悲」と向き合う物語
筆者はこの場面を見ていてある仏教用語を思い出しました。
仏教とは仏の教えという意味ですが、仏は「慈悲」の心を持つと仏教では教えられます。
仏・菩薩の衆生をあわれむ心。楽を与える慈と苦を除く悲とをいう。
(大辞林 第三版)
日常会話の中で私も、推しのグッズを引いた友達に交換してもらいたい時など「どうかお慈悲を…!」といったことを言いますが(笑)一般的に慈悲といえば思いやりの心といったニュアンスで使われます。
筆者も仏教を学んで知ったのですが、実は仏の「慈悲」と人間の「慈悲」は全く違います。
よく仏が持つ「慈悲」と人間の「慈悲」は比較して解説されますが、大きな違いの一つが先を見通す智慧に裏付けられているかどうかです。
智慧のある人と聞くとIQが200以上あったり、世渡り上手だったりといった意味に思いますが、実は仏教でいう智慧は先を見通す力。
人間の慈悲は相手を思ってやったことが、返ってその人を苦しめる結果になることが往々にしてあります。
一方で仏の慈悲は、先を見通す智慧に裏付けられているのです。
人間が想像も及ばない遠い未来の幸せのために、お釈迦様という仏が説いた教え「仏教」は説かれています。
よく仏教は難しそう…というイメージが持たれるのは、スケールが人間の智慧より遥かに大きいからなのかもしれません。
惠蛄(セミ)春秋を知らず
という言葉があり、桜舞う春や紅葉の秋をセミが知らないように、長くても80年や100年で死んでいく私たちも仏からするとセミと同じ。セミでいう春や秋が無限に存在します。
三日月宗近は仏ではなく付喪神ですが、悲伝での三日月と仲間たちの思いとの違いは、仏と人間の「慈悲」の違いに似ています。
三日月の不審な点に気づいた燭台切光忠が、和を乱さないために一人抱え込む「慈悲」も光忠らしい、そして人間らしい思いやりの心。
しかし最終的にそれが裏目に出て、三日月と刃を交えるしかなくなります。
対して三日月は、一見仲間を悲しませているように見えますが、大きな目的のために仲間に刃を向けられてでも何かを成し遂げようとしています。
他の刀剣男士の仲間を思う心が人間の「慈悲」とするなら、「人間」の智慧では考えられないスケールで人間を幸せにしようとする仏の姿に、三日月は似ています。
他の刀剣男士たちも審神者も知ることのできない、遠い未来、広い世界のスケールで三日月は何かを守ろうとしているのかもしれません。
そんな「慈悲」の一端を感じ取ったのか、山姥切国広は三日月を皆で討とうとする時に一人
「待て!まだ三日月からなんの話も聞いていない!」
と言って三日月の真意を聞こうとします。
仲間たちに「結いの目」となった理由を求められた三日月は
歌仙「どうして答えない?」
三日月「それを答えたところで、もう元には戻れんからな」
と言いますが、観ている私たち審神者も、他の刀剣男士も預かり知れぬ「慈悲」がその背後にあるのではないでしょうか。
山姥切国広は、時空の崩壊に巻き込まれたとき
「俺は結いの目で、絡まりあった歴史を見ているのか?」
と、結いの目である三日月が見ていた世界の一端を知らされます。
しかし一方で三日月宗近は仏ではなく、「人間」の心を得た刀剣男士でした。
人であるが故に、「慈悲」の心で円環し続けることの限界も同時に私たちに教えてくれます。
次回は三日月宗近の「人間」としての側面について、考えてみたいと思います。
【2019/05/20追記】
新作の副題が発表され、「慈伝 日日の葉よ散るらむ」であることが明らかになりました。
「悲伝」と「慈伝」の漢字を組み合わせると「慈悲」。
「慈伝」で三日月宗近の「慈悲」の心がさらに明らかになっていくのか、今から夏が楽しみです。
※「悲伝 結いの目の不如帰」のセリフ紹介はこちらから引用させて頂きました。 (より深く刀ステの感動を味わえるので、とてもオススメです!)
末満健一(2020)「戯曲 舞台『刀剣乱舞』悲伝 結いの目の不如帰」ニトロプラス
※アイキャッチ画像…舞台『刀剣乱舞』悲伝 結いの目の不如帰」第2弾キービジュアル より
■次作「慈伝 日日の葉よ散るらむ」の感想コラムもアップしています
【刀ステ慈伝】三日月の「慈悲」が明らかに。義伝の伏線から「慈伝」の意味を考察する※ネタバレ注意【大阪・兵庫公演、東京公演アーカイブ配信感想】
【刀ステ慈伝・感想】「慈伝 日日の葉よ散るらむ」山姥切国広とへし切長谷部の変化から分かる、大切な人を失う悲しみ(ネタバレ注意)