【刀ステ考察】「維伝 朧の志士たち」から知る岡田以蔵の姿。肥前忠広と「朧」によって明らかになる「人斬り以蔵」の心とは※ネタバレ注意

2.5次元舞台の中でもトップクラスの人気を誇る「舞台『刀剣乱舞』」。

これまでの「舞台『刀剣乱舞』」通称「刀ステ」シリーズを受け継ぎながら、新しい物語の幕開けを飾った作品が、2020年1月18日(土)に大千秋楽を迎えた「舞台『刀剣乱舞』維伝 朧の志士たち」です。

【公演ダイジェスト】舞台『刀剣乱舞』維伝 朧の志士たち

※「刀ステ」って何?という方はこちらのコラムでご紹介させて頂いています。

【刀ステ悲伝・感想】三日月宗近から「悲伝」の本当の意味を考察する(大千秋楽公演ネタバレ有り)

前回は「維伝」のあらすじと見どころをご紹介しながら、物語の核となる坂本龍馬に注目、物語の舞台である「文久土佐藩」の正体を考察しました。

【刀ステ維伝・考察】「朧の志士たち」の意味とは?坂本龍馬のセリフから分かる、物語の謎を解く鍵は「願い」 ※ネタバレ注意

今回は刀剣男士・肥前忠広と歴史人物キャストとして登場する岡田以蔵を中心に「維伝」の物語を振り返り、「刀ステ」ならではの切り口で描かれた「人斬り以蔵」の姿を考察。

肥前忠広・岡田以蔵のセリフから、目まぐるしく変化する現代社会に生きる私たちの心を惹きつけて止まない、時代の変革期に散った「人間」としての以蔵の姿に迫ります。

※「舞台『刀剣乱舞』維伝 朧の志士たち」のあらすじ等は、筆者が2019年12月12日の兵庫公演、大千秋楽ライブビューイングを鑑賞し見聞きした内容をご紹介しています。セリフの表現等に誤りがある可能性がありますが、「戯曲」が発刊されたら修正予定です。

【維伝・あらすじ】文久土佐藩を舞台に土佐勤王党の志士たちを描く「維伝 朧の志士たち」※ネタバレ注意

※この後「舞台『刀剣乱舞』維伝 朧の志士たち」の核心に迫るネタバレがあります!未鑑賞の方は配信・Blu-ray等でご覧になってから読まれることをオススメします。

「あああ……なんちゃあない……なんちゃあない、なんちゃあない……

わしは斬らんといかんぜよ……

……天誅じゃ」

維伝 朧の志士たち」は副題から予想されていた通り、幕末の動乱期が物語の舞台でした。

原作ゲーム「刀剣乱舞-ONLINE-」の人気イベント「特命調査 文久土佐藩」をベースにした「維伝 朧の志士たち」。

黒船来航から始まり、文久土佐を語る上で外せない土佐勤王党の人物・武市半平太岡田以蔵の運命の歯車が、幕末の動乱の中で軋んでいく過程が描かれます。

武市半平太と岡田以蔵の辿った凄惨な最期を聞いた坂本龍馬は

「武市さんと以蔵さんが……?

なんでじゃ……?なんで死なんといかんが?

皆こん国のため思て、こん国を未来につなげるために必死で生きようとしたんじゃ!!

なんでこんな形で死なんといかんが……!

わしが脱藩せんと土佐におったら二人を助けられたんか?

こんなことなら武市さんらを説得して一緒に脱藩しちょったら……!!」

と強い後悔に苛まれ、過去をやり直したいという強い願いに囚われます。

一方、過去に遡り歴史を改変しようとする時間遡行軍と、歴史を守るために顕現した刀剣男士たちとの戦いの中で、時間軸が複雑に分岐。

歴史改変の阻止が叶わなかった時間軸の成れの果てが、正史と切り離された「放棄された世界」でした。

「維伝 朧の志士たち」では放棄された世界「文久土佐藩」の調査に出陣した刀剣男士たちの姿が描かれます。

実は「文久土佐藩」の正体は、坂本龍馬が半平太と以蔵の死を聞いたときに抱いた後悔と、願いが生み出した街でした。

龍馬が強く念じた「願い」が生み出したハリボテの街では、土佐勤王党が恐怖政治を敷いていました。

土佐勤王党の頂点に立つのは、前の年に半平太の指示によって暗殺されたはずの吉田東洋

正史では死んでいるはずの人物を首魁とした土佐勤王党で、以蔵は敬愛する師である半平太の元で「天誅」を行っていました。

ここでいう「天誅」とはこの国のためにならない人を殺すことを「天の誅伐の代行」という意味で正当化した言葉です。

「武市先生!佐幕派をまた斬っちゃったき……

先生の敵は、わしが斬る

誰であろうと全部わしが斬るぜよ

その文久土佐の街に、自分が全ての始まりだとまだ知らない坂本龍馬が戻ってきます。

半平太は脱藩した龍馬を「天誅」として殺すよう以蔵に指示。

以蔵は仲間であった龍馬を斬りたくない思いと、半平太への忠心に激しく葛藤しながらも「天誅」を全うすることを一旦は決意します。

「先生のためなら斬らなあかん。

わしは人斬りじゃ……人斬り以蔵なんじゃ!

物語の展開とともに「維伝 朧の志士たち」の舞台である「文久土佐藩」だけでなく、「岡田以蔵」たち歴史上の人物も、龍馬の願いから生まれた「朧」という存在であることが分かります。

刀剣男士たちがモノに込められた心から励起された存在であるように、「朧」岡田以蔵は、一人の人間としての岡田以蔵の「心」を象徴する存在でした。

「刀ステ」ならではの切り口で岡田以蔵の心、そして願いに迫っていく「維伝 朧の志士たち」。

維伝の岡田以蔵を語る上で外せないのが、刀剣男士肥前忠広の存在です。

岡田以蔵ファンは必見!人斬り以蔵の本心と願いに迫る「維伝」の見どころ

「ああ……俺は人斬りの刀だよ……よく分かってる」

「あああ惜しか……!わしと同じ、人斬りの匂いのする人じゃ……!」

肥前忠広は原作ゲーム『刀剣乱舞-ONLINE-』のイベントであり、「維伝 朧の志士たち」のストーリーのベースにもなっている「特命調査 文久土佐藩」で実装された刀剣男士です。

おれは肥前忠広。

大業物と名高いが、元の主のせいですっかり人斬りのだよ。

折れても使い続けたってのは、物持ちが良かったんだか貧乏性だったんだか……

「大業物」と言われる高価な刀剣だったにも関わらず、元主・以蔵の物語を色濃く映す形で顕現した肥前忠広は、血で汚れた衣装という、他の刀剣男士と比べてかなり異質な容姿をしています。

(ちなみに、筆者はこのビジュアルに一目惚れでした(笑))

一方、同イベントで実装された刀剣男士であり、元主が以蔵の師・武市半平太である南海太郎朝尊(以下南海先生と表記)は刀工の逸話が強く現れた存在です。

南海先生は「維伝」で登場する岡田以蔵が歴史上の当人ではなく「朧」であると見抜いた際に、自分たちの成り立ちについて説明しています。

僕たちは、モノに込められた「心」によって顕現する。

(中略)

僕は元の主ではなく、刀工の逸話が元になっている。

肥前くんは、龍馬から以蔵に渡った故の逸話を持つが……

もし龍馬の刀のままであれば……

話は違ったろうね

同じ土佐勤王党に関係する人物を元主に持ちながら、異なる在り方で顕現したのが肥前忠広と南海先生なのです。

岡田以蔵の物語から生まれた肥前忠広と、自身を以蔵本人だと思いこんでいる、人の心が生み出した魑魅魍魎「朧」である岡田以蔵。

二人の出会いによって「維伝」の物語は、最後まで登場しない「岡田以蔵」本人の心に迫っていきます。

「なんじゃおんし……わしか!?

わしと同じ匂いがする……

洗ってもどうにも取れん、人斬りの匂いじゃ……!」

刀を交わした際、「朧」の以蔵は肥前忠広が自身と同じく「人斬り」としての象徴であることを察知します。

その後「朧」としての本来の姿になった以蔵は、肥前忠広の前で人を斬り続ける理由を打ち明けます。

「わしは貧しい足軽の家に生まれた……上士郷士の身分差が激しいこの土佐では

わしは犬畜生も同然じゃった!!

学の無いわしには剣しかなかった……けんど!!

いくら剣の腕が立っても、身分の差を埋めることはできん!!

そんなわしの刀に武市先生が意味を与えてくれたんじゃ……天誅という意味じゃ!!

天誅はわしの生きがいじゃ

わしは天誅のために……人を斬って斬って斬りまくった!

周りの人間はわしを人斬り以蔵とゆうた……

わしは好きで人斬りになったんやない!

肥前忠広の身体を掴みながら「朧」の以蔵が吐き出すその言葉は、さながら以蔵本人が生涯抱え続けた、心の叫びでした。

「けんどそれでもわしは人を斬る……この国の新しい時代を切り開くためにな!!」

以蔵が言う、新しい時代とは「均し(ならし)の世」のこと。

「嫌じゃ、まだ死にとうない……わしはまだ新しい時代を見ちょらん!

武市先生や龍馬と作る、上士も郷士もない……

みんなが自由に生きられる!!……均しの世じゃ!!」

当時の土佐で「犬畜生」とされた身分だった岡田以蔵。

半平太のような学も無かった以蔵にとって、「天誅」は半平太が与えてくれた、人間として生きる意味になっていきました。

しかし皮肉なことに、史実に伝わる以蔵の最期から見れば、「天誅」は生きがいであったと同時に、以蔵を破滅へ向かわせた呪いでもあります。

「維伝」では以蔵が快楽殺人者ではなく、自身の存在価値として縋ったのが「天誅」だったという面が、「朧」の以蔵と肥前忠広のセリフで表現されていきます。

以蔵「……今ここで死んだらもう人を斬らんで済むがか……?

人を斬らんで済むがなら、それでもええんかもしれん……

肥前「斬りたい訳じゃねえんだ…

斬りたい訳じゃねえんだよ!!

誰も信じてくれねえだろうが……!!」

筆者は肥前忠広とともに、岡田以蔵のファンでもありますが、歴史人物として以蔵が好きな方にも見て頂きたい、涙無しには見られない描写です。

原作ゲーム『刀剣乱舞-ONLINE-』における肥前忠広の紹介文にも、以蔵が存在価値を見出せたのが「天誅」という敵を斬る行為だったという一面が現れています。

「人斬り」の刀としての象徴・肥前忠広と、「人斬り」の心が形となった「朧」としての以蔵両面から「岡田以蔵」に迫っていく歴史ファン必見の物語が「維伝 朧の志士たち」です。

「維伝」で描かれた「岡田以蔵」は、激動の時代と身分社会の中で、自分が人間として生きる意味を見いだせなかった一人の若者でした。

人間としての存在価値が欲しいという渇望を満たすためなら、「人斬り以蔵」という名を付けられても構わない。

「犬」ではなく、人間として生まれた意味を教えて欲しい。与えてほしい。

そんな以蔵の「願い」は、目まぐるしく変化する現代の日本社会で苦しむ私たちの姿にも、共通するように感じます。

殺人鬼「人斬り以蔵」ではなく、「人斬り以蔵」の名で呼ばれた一人の人間としての以蔵に迫った物語が「維伝 朧の志士たち」ではないでしょうか。

肥前忠広のセリフが「朧」の岡田以蔵にとっての光になる。「人斬り以蔵」が求め続けたのは「存在価値」

「斬りたい訳じゃねえ……そんなこと……俺が一番分かってるよ」

折れても使い続けたと言われる大業物、刀剣・肥前忠広を手にした「朧」の以蔵はその後、刀剣男士たち、そして肥前忠広と共闘することに。

以蔵「わしの刀は天誅の刀……!

人ら斬りとうない……けんど」

肥前「お前には!!それしかないんだろ?」

刀剣男士・肥前忠広は、以蔵が苦しみに満ちた短い人生で縋った「人斬り以蔵」としての在り方を肯定するようになります。

こいつは犬じゃない!

……『人斬り』だ!

そうだろう!?」

土佐勤王党・上士の「朧」に「犬畜生が」と罵られた以蔵に肥前が言ったセリフ。

この言葉を聞いたときの、一色洋平さん演じる岡田以蔵の表情が、筆者は忘れられません。

幕末の動乱の中、必死に求めた己の存在価値が「天誅」という殺人行為にすり替わっていった以蔵。

「人斬り以蔵」と言われても構わない、人間としての自身の価値を死ぬまで追い求めた一人の青年が以蔵でもありました。

存在価値が欲しいという「願い」を愛した刀に受け止めてもらえた「朧」の以蔵は、その姿はたとえ魑魅魍魎でも、劇中で一番輝いていた場面だと感じます。

「いつもは虚しいが……今日は少し、自分を誇れそうだ」

肥前くんもまた「朧」の以蔵の生を受け止める中で、暗かった表情が変わっていきます。

人間ではなく「犬畜生」の身分と差別されてきた以蔵はきっと、人間として生まれた理由を求めずにおれなかったのではないでしょうか。

たとえ犬扱いはされずとも、会社や学校という社会で歯車の一部のように生きている私たち現代人も同じ。

毎日同じことの繰り返しの中で、人間として生まれた理由が分からなくなっていく人で現代社会は溢れかえっています。

2600年前、仏教を説かれたお釈迦様の言葉に

人身受け難し、いますでに受く

という一節があります。

動物や魚、虫といった他の生き物ではなく、人間に生まれるのは大変難しいという意味で、人の身を受けることの有り難さを教えられた言葉です。

お釈迦様は一生涯かけて、人に生まれることの難しさと、人間として生まれたことの深い意味を説かれていきました。

私たち人間には今も2600年前も、そして幕末の時代も変わらない存在価値があると仏教では教えられています。

身分も才能も関係なくすべての人命に価値があると以蔵に教える師がいたら、以蔵の人生も歴史も、史実と大きく変わっていたかもしれませんね。

「朧」と「刀剣男士」から紐解く、岡田以蔵の姿。それは「刀ステ」でしか描けない以蔵の物語

その出自と短い生涯ゆえ、極めて史料の少ない「岡田以蔵」という人物。

半平太から与えられた「天誅」に人生を捧げるも最期は師に見捨てられた、岡田以蔵の迷いと苦悩に満ちた生涯は、多くの現代人の心を掴んでいます。

岡田以蔵の「朧」を演じられた一色洋平さん大千秋楽カーテンコールで以蔵についてこう仰っていて、筆者は胸が熱くなりました。

以蔵さんのことは最後までよく分かりませんでしたね

史料も圧倒的に少ないですし、あったとしても「こう……だったのかな?」みたいのが多くてとても不確かでした

でも途中で思ったのはですね

「分かった気にならない」方が大事だと思いました

どんな人なんだろうな、どんな人だったんだろうなって思っている方がいくばくか真摯なのかなというふうに思いました

うん、以蔵さん、ありがとう

死人に口無し、以蔵が刀の時代の終わりに「天誅」に命を散らしたその真意は誰にも分かりません。

誰も真実を知ることはできない「岡田以蔵」という人物を「朧」と「刀剣男士」という2つの存在から迫っていく物語は、「刀ステ」だからこそ描ける人間ドラマではないでしょうか。

「刀ステ」シリーズの脚本を手がけられてきた末満健一さんは「義伝 暁の独眼竜」の戯曲本にこう書かれています。

歴史が事実とは限らない。

舞台『刀剣乱舞』をつくりながら、胸の内には常にその思いがある。

昨日のことだってあやふやだし、近しい家族や友人のことだってどこまで深く理解できているのかわからないのに、遠い過去に生きた人々のことをどれだけ事実を伴って理解することができるのだろうか。

(中略)

もちろん史料に基づく歴史的事実というものも存在するのだけど、その史料が事実を記したものなのかは証明のしようがない。

どうあがいても「説」の域を出ない。

その説を以て、歴史家や歴史愛好家のバイアスのかかった「たぶんこうだったんじゃないか」「こうであってほしい」という仮想の物語が、今でいう「歴史」なのではないかと思う。

よって、歴史というものは真実や事実ではなく、国や人々の足跡を個人解釈するための糸口でしかないということになる。

戯曲 舞台『刀剣乱舞』義伝 暁の独眼竜  あとがき「義伝 四方山話」より

筆者はこの末満健一さんの歴史観が大好きで、刀ステで描かれる歴史人物も「真実や事実ではなく、国や人々の足跡を解釈するための糸口」であるところが大きな魅力だと感じます。

刀ステシリーズが「刀剣男士」ファンだけにとどまらず、幅広い層に支持され続けている理由でもあるのではないでしょうか。

歴史として語られる人々の足跡は、いつの時代も変わらない人間の姿を知る糸口でもあります。

時代がどれだけ変わっても、生きる意味が知りたい私たちの姿は変わりません。

いつの時代も私たちが求めずにおれない、自分の存在価値

平々凡々とした毎日の中で忘れがちな大切な問いかけを、「維伝 朧の志士たち」で描かれた「岡田以蔵」の姿は投げかけているような気がします。